Abna通信社の報道によると、もし我が子に自分を尊重してほしいと願うなら、まず自分が子どもを尊重することを学ばねばならない。
私たちの宗教文化において、両親への敬意はきわめて高い位置を占めている。聖クルアーンは唯一神への帰依を命じた直後に、人間に対して両親への善行を勧め、次のように述べている。
「وَقَضَیٰ رَبُّکَ أَلَّا تَعْبُدُوا إِلَّا إِیَّاهُ وَبِالْوَالِدَیْنِ إِحْسَانًا...」
神は、御自身以外を崇拝してはならず、両親には善を尽くせと定められた。もし両親のいずれか、あるいは双方が年老いてあなたのもとにあるならば、彼らを嘆かせるような言葉すら口にしてはならず、敬意をもって語りかけ、謙虚さと慈しみの翼を彼らの上に広げよ、と。
この章句は、子が両親に対して責任を負うことを明確に示している。しかし、この関係は一方通行にすぎないのだろうか。両親であるという理由だけで、子どもにどのような態度を取ることも許され、子は如何なる状況でも敬意を払う義務を負うのだろうか。
イスラームの見方はそうではない。
イスラームの論理において、家族とは互いを辱め合う場ではなく、教育、慈愛、尊厳、そして相互の権利の尊重が行われる場である。子が両親の権利を軽んじることで「親不孝(ウクーク・アル=ワーリダイン)」に陥りうるのと同様に、両親もまた子の権利を無視するならば、子に対して責任を負う。
親不孝は子どもだけのものではない
ムハンマド(SAW)の伝承に、次のように述べられている。
「子が両親に対して親不孝になりうるのと同じように、両親もまた子に対して親不孝になりうる。」
そして、ムハンマド(SAW)が信徒の長(アミール・アルムーミニーン)イマーム・アリー(AS)に授けた教えには、次のように述べられている。
「我が子を悪しく育て、その子が親不孝に陥る原因を自ら作った父母に、神の呪いあれ。」
この言葉は、私たちの親子関係に対する見方を変えるものである。
私たちはしばしば、家族のすべての責務は子どもの肩にあると思い込む。子は敬意を払い、従い、沈黙を守り、耐え忍び、決して両親に口答えしてはならないと。しかし同時に、父や母が我が子を辱め、その人格を傷つけ、兄弟姉妹の間で差別し、情緒的な欲求を無視し、粗暴で暴力的な態度で接しながら、それらすべてを「しつけ」という名目で正当化してしまうこともある。
イスラームはこのようなしつけを認めない。
子どももまた一人の人間であり、人格、感情、尊厳、権利を有する存在である。
子の権利は食事と衣服だけではない
信徒の長(アミール・アルムーミニーン)イマーム・アリー(AS)は、子が父に対して有する権利として、良い名、礼儀の教育、そしてクルアーンの教育などを挙げている。
他の伝承においても、子が父に対して有する権利として、良い名、学問の教育、結婚のための環境整備が語られ、さらには適切な職や仕事を持たせることさえも子の権利とされている。
したがって、両親の子に対する責任は、単に食事、衣服、住まいを与えることだけにとどまらない。
正しい教育それ自体が、子の最も重要な権利の一つである。
教育もまた広範な概念であり、子の身体的、精神的、道徳的、信仰上の欲求を包含する。慈しみ、約束の履行、子どもたちの間での公正、彼らの人格の尊重、正しい賞罰、子の友人や生活環境への配慮、そして宗教とクルアーンの教育——これらすべてがこの責任の一部である。
我が子に敬意を求める親は、敬意とは命令と強制だけで得られるものではないと知らねばならない。
「敬え!」だけでは足りない
もし両親が常に子に向かって
「目上の者を敬いなさい」
と言いながら、家庭内では子を辱め、不適切な言葉で呼びかけ、人前でその人格を疑い、あるいは子が過ちを犯すたびに暴力的に接しているならば、その子が敬意の真の意味を学ぶことを期待してはならない。
子どもは両親の言葉よりも、その振る舞いから多くを学ぶ。
我が子に敬意をもって語りかけてほしいなら、まず自分が敬意をもって語りかけよ。
怒ったときに叫んでほしくないなら、自分が怒ったときに叫ぶな。
嘘をつかないでほしいなら、子への約束に誠実であれ。
他人の人格を傷つけないでほしいなら、自分自身の人格を他人の前で傷つけるな。
子は他の多くの振る舞いと同様に、敬意もまた両親から学ぶのである。
預言者ムハンマド(SAW)——我が子の友となれ
ムハンマド(SAW)は次のように述べている。
「我が子を善の道において助け、慈愛をもって接し、その友となり、教え導き、礼儀を教える父に、神の慈悲あれ。」
「その友となる」という表現は、深く考えさせられるものである。
父と子の関係は、単なる命令する者と従う者の関係であってはならない。両親は教育者としての立場と並んで、子にとっての情緒的な拠り所でもあらねばならない。
家庭内で安心、慈愛、敬意を感じる子は、より率直に話し、自分の問題を打ち明け、困難の解決のために両親のもとに身を寄せる。しかし、絶えざる屈辱、叫び、叱責を恐れる子は、家庭の代わりに家庭の外にその拠り所を求めるようになりかねない。
厳しさの中にあっても子の人格を傷つけてはならない
イマーム・ジャアファル・サーディク(AS)の伝承によれば、ムハンマド(SAW)は次のように述べたという。
「我が子が善行をなすのを助ける者に、神の慈悲あれ。」
ムハンマド(SAW)に、いかにして子を助けるべきかと尋ねられた際、彼はこう答えた。子が容易に行ったことはそのまま受け入れ、困難なことは大目に見て、過酷で耐え難い義務を課さず、愚かさや荒々しさをもって接するな、と。
この伝承には、教育に関する重要な要点がある。
すなわち、しつけと子どもの人格を打ち砕くことは別のものである。
両親が子のすべての過ちを是認する必要はない。あらゆる要求を受け入れたり、何の境界も設けなかったりする必要もない。しかし、行動の是正と人格の辱めとは異なるものである。
こう言うことはできる。
「あなたがしたことは正しくなかった。」
しかし、子どもにこう植え付けてはならない。
「お前は悪い人間だ。」
子の自尊心を破壊することなく、過ちを正すことは可能である。
子を尊重することは、しつけをしないことを意味しない
子どもへの敬意について語られるとき、それを子が望むままに何をしてもよく、両親は一切の権威を持つべきではないという意味だと誤解する者もいる。
しかし、敬意と無秩序とは異なるものである。
両親は子のために規則を定め、その過ちを注意し、誤った行動に対して境界を設け、さらには教育的な意図で戒めることもできる。ただし、それらすべては子の尊厳と人格を保ったうえで行われねばならない。
権威ある親と、辱める親とは同じではない。
権威とは、子が何が正しく何が誤っているかを知ることであり、辱めとは、子に自分自身が無価値であると感じさせることである。
慈愛、公正、そして約束の履行
子どもたちの重要な権利の一つは、両親からの公正な扱いである。
子どもたちの間の差別は、家庭に深い傷を残しうる。一人が常に「良い子」とされ、もう一人が絶えず兄弟姉妹と比較されるといった状況である。
「お前の妹はあんなにいい子なのに、どうしてお前はあの子のようになれないの?」
両親にとっては何気ない一言かもしれないが、子どもにとっては非常に重い意味を持ちうる。
「私は十分な存在ではない。」
一方で、約束の履行もまた大きな重要性を持つ。両親が子に約束をしたならば、理由なくそれを忘れてはならない。子どもはこうした振る舞いから、信頼すること、責任を負うこと、そして敬意を学ぶのである。
敬意とは相互的な振る舞いである
健全な家庭とは、一方が常に敬意を求め、他方が常にそれを負い続ける場所ではない。
敬意とは相互的な振る舞いである。
もちろん、両親の立場は子のそれと同じではなく、子は両親に対して特有の義務を負う。聖クルアーンが両親への善行を強調しているとおりである。しかし、この立場の違いは、子が権利を持たないことを意味しない。
両親はこう言うことはできない。
「私たちはお前の親なのだから、どのように扱おうと自由であり、お前はただ敬意を払う義務があるだけだ。」
イスラームの見方によれば、両親もまた、神が彼らに託した信託に対して責任を負う。
子は両親の私有物ではなく、神からの信託である。
そして信託は、誠実に守られねばならない。
親不孝——両者への警告
親不孝について語られる同じ伝承の中で、ムハンマド(SAW)は親子関係について重大な警告を発している。
その伝承にはこう述べられている。
「楽園とは神が創られた清らかな場所であり、その芳香は二千年の彼方からも感じられる。しかし、親不孝な者、親族の絆を断つ者……は楽園の香りを嗅ぐことができない。」
この警告は、敬意の欠如や家族の絆の断絶が、決して小さく取るに足らない問題ではないことを示している。
しかし、このような事態を防ぐためには、子にただ
「親不孝にならぬよう気をつけなさい」
と言うだけでは足りない。
両親に対してもまた、こう言わねばならない。
我が子を親不孝、疎遠、そして家族からの離反へと追いやるような振る舞いをしないよう、注意しなければならない、と。
子は時に、何年も沈黙を守り、何年も耐え忍び、何も語らないことがある。しかしそれは、そこに何の傷もないことを意味するものではない。
我が子に敬意を求める前に……
親であることは、権利だけを生み出すのではなく、責任をも生み出す。
我が子に老後、自分のそばにいてほしいと願うなら、今日、その子の幼少期に、そばにいてやりなさい。
自分の言葉を敬意をもって聞いてほしいなら、子の言葉を敬意をもって聞きなさい。
子が悩みを打ち明けてくれることを願うなら、あなたの裁きや叱責を恐れさせるような振る舞いをしてはならない。
将来、慈しみを返してほしいなら、今日、その慈しみを子から惜しんではならない。
そして、自分が年老いたとき、我が子が手を取り、優しく寄り添ってくれることを願うなら、今日、幼い我が子の手を暴力的に振り払ってはならない。
結び
イスラームが両親への敬意について語るとき、それは一方だけが権利を持ち、もう一方はただ義務のみを負うような家族像を描いているのではない。子には両親の尊厳を守る義務があり、クルアーンは彼らに対する最も些細な傷つく言葉すら禁じているのは事実である。しかし、この義務と並んで、両親もまた子に対して重い義務を負っている。
良い名、教育、しつけ、慈愛、公正、約束の履行、寄り添い、尊厳の尊重、そして粗暴さと辱めを避けること——これらは子の権利の一部である。
したがって、我が子に敬意を求めるなら、まず自分自身から始めよ。
敬意はただ要求するだけで得られるものではなく、それを生きなければならない。
我が子はいつか、あなたの家よりも大きく、独立した存在になるかもしれない。しかし、あなたが子の心の中に築いた「敬意」のイメージは、長年にわたって子とともにあり続けるだろう。
だからこそ、こう言う前に、
「我が子よ、私を敬いなさい」
一度、自分自身に問いかけてみるべきである。
「私は、子に求めるのと同じだけ、子を敬ってきただろうか。」
なぜなら、家庭における敬意とは一方的な命令ではなく、両親から始まり、子どもたちへと続いていく双方向の関係だからである。
著者: ファーティマ・プラバース
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