聖なるイマーム ムハンマド アル・バーキル(AS)はシーア派5代目のイマームである。彼の通称は、アブージャッファル(ジャッファルの父)であるが、アル・バーキル又は、バーキル・ル・ウルームという称号で広く知られている。彼はヒジュラ57年ラジャブ月1日(火)にマディーナ(メディナ)において誕生した。イマームの父は4代目イマームのイマーム・サッジャード(AS)、母はイマームハサンの娘である。したがってイマーム・バーキル(AS)は父方から言っても母方から言っても預言者の娘であるファーティマトゥッ・ザハラ(S.A)に連なる唯一のイマームということになる。
イマーム・バーキル(AS)は3年の間、彼の祖父で3代目イマームのイマーム・フサイン(AS)の膝の上で育てられた。その跡の4年間は父であるイマーム・サッジャード(AS)の優しい保護下にあった。
聖なるイマームはその祖父のイマーム・フサイン(AS)とその同僚たちが全員殺害された身の毛のよだつようなカルバラの悲劇の時、その場に居合わせた。イマームはまたその父とアフルルバイト(AS)に属する女性たちと共にヤズィード イブン ムアーウィアの命令で野獣のような軍隊の手によって情け容赦なく捕えられ投獄され言葉に絶する苦難を味わった。カルバラの悲劇のあと、イマームはマディーナにおいてアッラーに祈りながら平和に暮らし人々を「正しい道(復活の道)」に導いた。
ウマイヤ朝の没落は、ムアーウィアの息子ヤズィードがイマーム・フサイン(AS)を殺害した時から始まった。ヤズィード自身、その後の短い期間の統治の間、自分の行った悪い行為の結果を完全に認識した。彼の息子のムアーウィア2世は「余は圧政と専制の基礎の上に築かれたそのような王座を祝福することはできない。」と言って、カリフに就任することを拒否した。
スンニ派に属する有名な学者であるイブン ハジャール アル・ハイタミーは言っている。イマーム・バーキル(AS)は知識と叡智の秘密を開き、精神的・宗教的導きの原則を明らかにした。誰もイマームの気高い性格、神が与えられた知識、神から贈られた叡智、知識を広げようとする義務感と感謝を否定することはできない。イマームは聖にして高い手腕を持った有能な精神的指導者であった。そのためにイマームは「アル・バーキル(知識を広める者の意)」という称号を与えられた。親切な心、欠点のない性格、聖なる魂、高貴な資質の持ち主であったイマームはすべての時間をアッラーに従うため(そして聖預言者とその子孫の教えを擁護するために)献身した。信じる者たちの心の上に残したイマームの知識と導きの深い感動を計ることは人間の力を超えたものである。献身と禁欲、知識と叡智、宗教的実践とアッラーへの服従についての彼の言説はあまりにも多く、ここでそれらをすべて飲めることは到底できない。
聖なるイマームは聖預言者(SAW)とアフルルバイト(AS)の教えと救済を本の形にして残した。イマームの門弟たちはイマームの命令と指導下に科学と芸術の異なった分野についての本を編集した。
人間的純粋さ、神的特性の卓越において、イマームは聖預言者と彼の偉大な祖父であった初代イマーム・アリー(AS)の生き写しのようであった。イマームが警告すればそれはムスリム全般の間にセンセーションを巻き起こした。イマームは最悪の敵に対して親切であったばかりでなく、彼等に「正しい道(復活の道)」へと根気よく説得し勧めた。イマームは人々に自分自身の働きによって生活資金を得るよう激励した。
聖イマームはイマーム・フサイン(AS)を追悼するための集会を開くことに大きな重要性を感じ努めた。当時のもっとも有名で非常に有能な詩人のひとりであったクマイト イブン ザイード アル・アサディーはそのような追悼集会においてイマーム・フサイン(AS)の悲歌を歌った。そのような種の集会は6代目イマーム及び8代目イマームによっても大いに奨励された。
イマーム・バーキル(AS)はヒジュラ114年まで平和裡に宣教を続けることが出来た。イマームが57歳になった年のズル・ヒッジャ(太陰暦12月の巡礼月)7日、時の統治者であったヒシャーム イブン まるわーんはイマームを毒殺した。この聖イマームの葬儀の祈りは息子で6代目イマームのジャッファル・ッサーディク(AS)によって唱えられ、イマームの遺体はマディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に埋葬された。
(イスラーム案内『シーア的観点より』澤田沙葉 訳より引用)
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