20年にわたる南北ベトナム戦争は、アメリカの直接介入によって20世紀で最も血みどろの戦闘の一つとなり、ベトナムの独立につながった他、アメリカの世界的な威信を失墜させることになりました。
この記事では、世界におけるアメリカの軍事的敗北の象徴となったベトナム戦争の原因を考察していきます。
歴史的起源と背景
第2次世界大戦前、ベトナムはフランスの植民地でしたが、世界大戦中は日本の支配下にありました。この戦争終結後、この地域には権力の空白が生じました。ベトナムの革命的共産主義者ホー・チミンは、自国の自由と独立を求めましたが、連合国はベトナムがフランスの属国となることに同意しました。ホー・チミンと彼の戦士たちは、やがてフランスとの戦いに突入し、彼はアメリカ合衆国からの支援を求めました。しかし、アメリカは東南アジア全域における共産主義の拡大を恐れていたことから、ホー・チミンの成功を望んでいませんでした。ホー・チミンと彼の支持者らがフランスに対し勝利を収めると、アメリカ合衆国はさらに懸念を強め、フランスへの援助を開始しました。
ベトナムの南北分断と危機の始まり
ジュネーブ協定(1954年にスイス・ジュネーブで締結されたベトナム戦争の休戦と平和回復に関する協定)に基づき、ベトナムは北ベトナム(共産主義、ベトナム民主共和国)と南ベトナム(反共産主義、ベトナム共和国)に分断されていました。1956年の選挙は国家統一を目的としたものでしたが、米国とその同盟国はその実施を認めませんでした。南部では、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエム大統領による抑圧的な独裁政権が政権を掌握し、数万人の反体制派の処刑・拷問により内戦の火種をまきました。戦闘は1959年に勃発し、ベトナム戦争が本格的に開始されました。
ドミノ理論:アメリカの介入の口実
アメリカは、当時のジョン・F・ケネディ政権の台頭に伴い、「ドミノ理論」を根拠にベトナム駐留を拡大しました。これは、東南アジアの一国が共産主義に陥ると、他の国々もドミノ倒しのように巻き込まれ共産主義化するという理論です。この構想は、財政援助と軍事援助、そしてアメリカ軍の直接介入の口実となりました。
トンキン湾事件と米軍の正式参戦
1964年8月、北ベトナム軍はトンキン湾で米駆逐艦2隻を攻撃しました。これが引き金となり、米国議会はベトナムにおける大規模な軍事力行使を承認したのです。その結果、大規模な航空作戦が開始され、米軍戦闘部隊は1965年3月に正式に戦場に派遣されました。その兵力は急速に増加し、1967年までに50万人に達しています。
流血と炎:戦争の人的犠牲
アメリカ軍の犠牲者数は増大し、1967年までに1万5000人以上のアメリカ兵が死亡、10万人以上が負傷しました。一方、容赦ない爆撃によりベトナムのインフラは破壊され、数百万人の民間人が殺害され、あるいは難民として避難を余儀なくされました。この戦争が長期化し、決着の見えない状況に陥ったことから、アメリカ国内では反戦・抗議運動が激化しました。
米国内で反戦デモが拡大
1967年からは、全米各地に反戦デモの波が広がり、数十万人もの人々が首都ワシントンをはじめ、複数の主要都市の路上に集結し、戦争終結を訴えました。反戦運動は特に大学キャンパスで勢いを増し、アメリカ社会は二分化していったのです。帰還兵らは、肉体的・精神的なトラウマ、毒ガスの被害、そして「落伍者」や「殺人者」というレッテルを張られることとなりました。
戦争のベトナム化:ニクソンの政策
リチャード・ニクソンがアメリカ大統領に就任すると、「戦争のベトナム化(ベトナミゼーション;ベトナムからの撤退戦略。つまり米軍など外国の軍隊は手を引いて、戦争を北ベトナム対南ベトナム、ベトナム人どうしのものにすること)」政策が導入されました。これは、アメリカ軍の段階的な撤退と、地上戦の南ベトナム軍への移管を意味しました。これに伴い、より大規模な爆撃と仏パリでの和平交渉が続きましたが、北ベトナムとベトコン(南ベトナムで結成された反米民族統一戦線;NLF南ベトナム解放戦線)の抵抗により、迅速には奏功しませんでした。
公然たる犯罪:ミライ村虐殺(My Lai massacre)
1968年3月、アメリカ軍は南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県ソンミ村ミライ集落で防衛手段を持たない数百人の民間人を虐殺しました。この悲劇が報道されたことで反戦運動が激化し、アメリカの信頼性はさらに損なわれることとなりました。
戦争の終結とアメリカの敗北
1973年1月、アメリカと北ベトナムの間で和平協定が締結されたものの、1975年4月30日にベトナムが再統一されるまで、両国間の戦闘は続きました。ベトナム戦争により200万人以上の死者、300万人の負傷者、そして数百万人の難民が出たほか、ベトナム経済は壊滅しました。アメリカはこの戦争に1200億ドル以上を費やし、5万8000人の命を失うという甚大な被害を受けたのです。しかしそればかりでなく、この戦争によりアメリカ軍の無敵神話は打ち砕かれ、アメリカ兵と社会の心理にも深い傷跡が残りました。
後に首都ワシントンには戦没者慰霊碑が建てられましたが、その心理的、政治的影響は今もなおアメリカ国民の記憶に生き続けています。ベトナム戦争は、アメリカにとって単なる軍事的敗北に留まらず、あらゆる手段を尽くせど強靭な国民の意志を粉砕できなかった超大国の屈辱を象徴するものでした。今日、ベトナムは、軍事力が正当性や勝利を保証するものではないことを改めて認識させる存在となっています。
Your Comment