31 8月 2025 - 08:35
Source: Parstoday
800万人のアンゴラ人奴隷を売買したヨーロッパの国とは?【写真あり】

ヨーロッパ南西部に位置するポルトガルも、他のヨーロッパ諸国と同様に植民地時代の歴史を持っています。

ポルトガル植民地時代、アフリカ南部アンゴラおよびモザンビーク、同北西沖カーボベルデ、南米ブラジル、インドネシア東短東ティモール、そしてインドの一部がポルトガルの支配下に置かれました。

 この記事では、アンゴラにおけるポルトガル植民地主義の歴史を振り返ります。

ポルトガル人の植民者は1483年、現在のアンゴラに侵入しました。アンゴラはアフリカで最も豊かな国の一つで、豊富な農業と鉱物資源(大規模な金鉱山とダイヤモンド鉱山)に加え、大規模な油田が存在するほか、その地理的な位置もアフリカ南部の情勢変化に重要な役割を果たしていたのです。

ポルトガルの植民地計画が存在していた一方で、もう一方には17世紀と18世紀のポルトガルにとって重要な奴隷貿易地域であったアンゴラが存在していました。

アンゴラの人々には約500年間にわたり、ポルトガルの影が重くのしかかることとなりました。この間、ポルトガル軍による鉱物資源や石油資源の略奪に加え、ポルトガル政府の奴隷貿易への関与により、5世紀にわたり約800万人のアンゴラ人が奴隷にされたのです。

18世紀には、西アフリカから推定で合計61万1000人もの奴隷が輸出されたと言われています。一方、同時期にポルトガルがアンゴラから輸出した奴隷の数は、その2倍以上の141万4000人に上ります。

多くのアンゴラ人もプランテーションでの強制労働に従事させられましたが、彼らは次第にポルトガルの植民地主義に抵抗するようになりました。抗議する地元民への暴力は、1961年前半に最初のピークを迎えることとなります。

同年1月3日と4日に起きた虐殺で、少なくとも5000人のアンゴラ人がポルトガル軍によって命を奪われました。

800万人のアンゴラ人奴隷を売買したヨーロッパの国とは?【写真あり】

同年3月、アンゴラ北部の農場で多くの地元民労働者が労働条件の改善を要求したことを受け、ポルトガル軍はアンゴラの一部(イコロ・ベンゴ及びバイア・デ・カスカイス地区)を爆撃し、17の村を破壊しました。この残虐行為により、約2万人のアンゴラ人が死亡しました。様々な情報源によれば、1961年の最初の8か月間にポルトガル軍によって殺害されたアンゴラ人は合計5万人に上るとされています。

米紙ロサンゼルス・タイムズによるポルトガル人の犯罪に関する記述は、読者の胸を深くえぐるものです。同紙には「ポルトガル軍はアンゴラ独立闘士たちの首を道路の両側の木に吊るした。ポルトガル人は数百人の囚人を拷問し、殺害した後、集団墓地に埋めた」という生々しい記述がなされています。

800万人のアンゴラ人奴隷を売買したヨーロッパの国とは?【写真あり】

ポルトガル人は村落の草でできた家屋を焼き払っただけでなく、アフリカの環境に対しても容赦なく、焼夷弾を使って森林を攻撃・破壊しました。

しかし、これらの犯罪と非人道的な弾圧によってもアンゴラ国民の自由への意志は打ち砕かれることはなく、逆に灰の下の火のように、怒りと結束により燃え上がり、最終的にはアフリカ史上最長の独立戦争へと繋がりました。数十年にわたる抵抗と犠牲の後、アンゴラ国民の闘争はついに1975年11月11日に実を結び、アンゴラは長年のポルトガル植民地支配の魔の手から独立を勝ち取ったのです。

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