イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は4代目イマームである。彼の通称はアブー ムハンマド(ムハンマドの父の意)で一般的にはザイヌル・アービディーンと呼ばれている。イマームの母はペルシャがイスラム化する前の最後の皇帝ヤズデゲルドの娘シャフル・バーヌーである。
イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は、ヒジラ36年ジャマーダル・アッワル(太陰暦5月)15日土曜日、マディーナ(またはメディナ)において誕生した。その幼年時代の最初の2年間は祖父のアリー イブン アビーターリブの膝の上で過ごし、そのあとの12年間は叔父である2代目イマーム アル・ハサン イブン アリーの優しい保護のもとに育った。ヒジラ61年イマームは彼の父、伯父たち、兄弟たち従兄弟たち、父のすべての神のための同僚たち全部が無残にも殺害された残虐な悲劇のカルバラに居た。そしてヤズィードの野獣のような軍隊の手により情け容赦ない監禁生活、投獄の苦しみを味わった。
父であるイマーム・フサイン(AS)が最後に家族に別れを告げるためにキャンプに来た時、アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は半ば無意識の状態で病床に横たわっており、そのためにカルバラにおける殺害から免れた。イマーム・フサイン(AS)はキャンプの親密な者たちに簡単な会話を交わすのが精一杯で、彼のを病める息子をイマームに指名して出ていった。イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は父のあと約34年生きながらえたが、その人生を通じてアッラーに対する祈りと哀願と殉教した父親の思い出に生きた。このイマームが広くサッジャード(良く平伏するもの)と呼ばれるのは彼がほとんど祈りのために膝まずいてアッラーに祈っていたためである。
このイマームの知識と敬虔さは比べられるものがない。アッ・ズフリー アル・ワークィーディー イブン ウナイヤフは言っている“その敬虔さその神的である点について我々はイマームに等しいものを発見することができない”と。彼はアッラーを常に心に留め、彼が祈りのためにウドウー(洗浄)するときにはいつもその顔色が変わり、礼拝に立つときは身体が震えた。そのことについて尋ねられたイマームは「わたくしは誰の前に祈るために立ち、誰と会話するのがあなたたちは知らないのか?」といった。
ヤズィードの軍隊が彼の父、彼の親戚、知己、同僚たちを皆殺しにキャンプに火を放ったあの身の毛のよだつようなアーシュラーの日においてさえ、このイマームは主に対する哀願に夢中になっていた。
ヤズィードの野獣のような軍隊が女、子供たちを捕虜としてとらえ、ラクダの裸の背中に乗せ縄をかけて連れて行った時、このイマームは病気であったけれどもその首と足首の周りに重い鉄の鎖をはめられカルバラーからクーファ、さらにダマスカスまで、棘の平原を裸足で歩かせられた。そのようなときでさえ、この神のような魂は決して主に対する祈りを忘れず常に感謝しアッラーに哀願した。
彼の思いやりは謙遜で内密であった。彼が死去した時人々は隠された思いやりはイマームの死とともに終わったといった。彼の祖父の祖父のアリー イブン アビーターリブ(AS)と同じようにこのイマームはメディナの貧しく困っている家族のために、夜、小麦粉とパンをを入れた袋を自分の背中に背負って運び、町じゅうの何百という貧しい家族に与えた。
イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は、彼の敵に対しても親切であったばかりでなく、常に彼らに「正しい道(復活の道)」を熱心に説いた。
イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は、アフルルバイト(家の者)と共にに恐ろしいい非常に危険な時を過ごした、なぜならば時の専制的統治者の攻撃と暴虐は頂点に達しつつあったからである。至るところで盗賊、略奪、殺人が行われていた。イスラムの教えは彼らの妨害でますます厳しく監視された。残虐な暴君アル・ハッジュジュ イブン ユースフ アッ・サクァーフィーはアフルルバイトに忠誠あるいは献身を祈った者を脅迫し、捕えられた者は情け容赦なく殺された。イマームな動きは厳重に制限され、人に会うことを絶対禁止された。アフルルバイトの支持者たちのを見張るためにスパイたちが雇われた。すべての家が捜査され、すべての家が探索された。
イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)は平和裡に祈りをささげる時間を与えられず、また説教することも許されなかった。それゆえ地上におけるこの会のこの神の代理者は第3の方法を採用したが、それは従う者たちにとって非常に有益であることが証明されている。それは人々が全能の神に近づくよう努力するうえで毎日使うための「祈願の本」を編纂することであった。彼がそのために編纂したこの上なく貴重な「祈りの本」は「アッ・サフィーハフ アル・カミーラ」あるいは「アッ・サフィーハフ アッ・サッジャーディーヤ」として知られている。それはまた「アル・ムハンマドのアッ・ザブール(詩篇)」としても知られている。この編集本は真似のできない美しい言葉で書かれ、主に対する驚くべき霊験ある祈願の本でこの上なく貴重な宝である。それらの祈願を見た者だけがその祈願の素晴らしさと有益な効果を知って驚くであろう。これらの祈りを通じてイマームはその隔離されていた間に、信ずる者たちのために必要なすべての導きを与えた。
ヒジラ95年ムハッラム25日、イマームがメディナにいるとき、時の統治者アル・ワリード イブン アブディル・マーリクはこのイマームを毒をもって殉教させた。この聖なるイマームの葬儀のための祈りは彼の息子、5代目イマーム ムハンマド アル・バーキル(AS)によって行われ、その遺体はメディナのシャンナトゥル・バキー墓地に休むために置かれた。
偉大なる神学者、アル・アァラアマ アッ・タバタバイーは言う
イマーム・アリー ザイヌル・アービディーン(AS)別称イマームサッジャード(AS)は3代目イマームとイラン皇帝ヤズデゲルドの娘で夫人の中の女王と言われた彼の妻の間に生まれた息子である。彼はイマーム・フサイン(AS)の子供の中で生き残った唯一の子であって、彼の3人の兄弟たち、すなわち25歳のアリー アクバル、5歳のジャッファル、乳幼児のアリー アスガールはカルバラにおいて殉教した。イマームもカルバラーへの旅に父と一緒であったが、重い病気のために武器をとって戦いに参加することができず、そのため聖戦に参加できず殉教から免れた。そこで彼は夫人たちとともにダマスカスに送られた。牢獄である期間過ごした後、彼はメディナに名誉をもって送られた、何故ならばヤズィードは世論を和らげようと欲したからである。しかし2度目の時は、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥル・マーリクの命によって鎖に繋がれてメディナからダマスカスに送られ、それから又メディナに返された。
4代目イマームはメディアに帰ってからは完全に公の生活から引退し、家の門を閉じ、礼拝に専念した。彼はただアブー ハムザー アッスマーリー、アブー ハーリド カーブリーといったシーアのエリートとだけ連絡を持った。。エリートたちはイマームから学んだ宗教的科学をシーアの間に広めた。このようにしてシーアイズムはかなり広まり、その効果は次の5代目イマームの時に現れた。4代目イマームは仕事の中には「アッ・サフィーハフ アッ・サッジャーディーヤ」と呼ばれる本がある。それは最も荘厳な神的科学に関する57の祈りから成り、「預言者の家の詩篇」として知られている。
4代目イマームはイマームとしての35年間ののちヒジラ95年/西暦712年に殉教した。
(イスラーム案内『シーア的観点より』澤田沙葉 訳より引用)
/309