12 11月 2016 - 07:48
“アルバイン”の教訓

アルバインの日(アルバインとは、アラビア語で40日目を指す)は、シーア派においては3代目イマーム フサイン(AS)とその72人の教友たちが圧制に対して蜂起し、カルバラの地で殉教してから40日目の追悼日である。われわれはこのアルバインの出来事によってどのような教訓を得ることが出来るのであろうか? (http://japanese.khamenei.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=289&Itemid=4より抜粋)

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

アルバインは、カルバラの出来事(上にあるイマーム フサイン(AS)とその教友による圧制に対する蜂起を指す)において、ひとつのきっかけ、出発点だった。カルバラの出来事が起こり、あの大きな悲劇が起こり、シーア派3代目イマーム フサイン(AS)とその教友たち、そして彼の一門の類まれなる献身が、あの限られた環境の中で起こった。捕虜となったことで、その出来事のメッセージを広める責を負った。“ザイナブ(SA)でイマーム フサインの妹“と“シーア派4代目イマーム サッジャード(AS)でフサインの息子“の発言、真実の開示によって、強力なメディアのように、思想、出来事、目的、世界への普及を、広大な範囲へと伝えなければならなかった。そして彼らはそのことを実行した。閉塞感に包まれた環境の特徴とは、人々が、突き止めた真理を行動で示す機会や勇気を持たない、ということである。なぜなら、まず、圧制的かつ独裁的な組織が人々に真実を悟らせまいとするし、もし人々の理解が組織の手を離れ、悟られてしまったとしても、そのときは、人々が悟った事柄を実行に移させまいとするからだ。クーファ、ダマスカスへの道すがら、多くの人々が、偉大なるザイナブ(SA)やイマーム サッジャード(AS)の言葉、あるいは捕虜の状況を目にすることにより、多くの事柄を理解した。しかし、あの閉塞感をもたらす圧制的で独裁的な機関に対し、悟った事柄を明らかにする勇気、力など、誰が持ち合わせていたというのだろうか? それはひとつの秘め事のように、敬虔な人々の喉もとに留まってしまった。(しかし)この秘め事には、アルバインの日に最初のメスが入れられた。カルバラの出来事の40日忌に、最初の噴火を起こしたのだ。

 

・・・歴史にはこのように記されている。捕虜の一団、すなわち、ザイナブ(SA)以下の一行がアルバインの日、カルバラに入ったとき、そこにはハーシェム家(預言者の出身の部族)の名士たちがいた。それは、(イマーム フサイン(AS)たちの)殉教によって実現されるべきであった目的が、実際に実を結んだことを示している。すなわち、この思想を普及させ、人々に勇気を与える、ということである。まさにそこから、タヴァービーン(イマーム フサイン(AS)の蜂起を目にして以前の自分たちの態度に後悔の念を抱いた人々が、イマーム フサイン(AS)の敵であったヤズィード軍に対抗して立ち上がった運動)の出来事が生じたのだ。タヴァービーンの出来事は弾圧されたが、その後まもなくして、自主的な蜂起、あの生き残ったクーファの勇者たちの出来事が起こった。邪悪で圧制的なウマイヤ朝の一門の内部の混乱も、それによって引き起こされたものである。もちろん、ウマイヤ朝の後に、メルヴァーニー朝が誕生した。しかし、闘争は続けられた。道が開かれた。これが、アルバインの特徴である。すなわち、アルバインには、真実の開示があり、実践がある。そして、その真実の開示による目的の実現も、アルバインには存在するのだ。

 

“神の道”において多くの犠牲を払った“彼ら自身の命、彼ら自身の安寧、彼ら自身の安全・・・、それら全て”を犠牲にしたのだ。しかし、それによって得た結果は、“目覚め”だった。正しい運動の特徴とは、まさにこれである。

 

その時代には居なかった者たちにとっての教訓とは何か? 正しい願望、正しい思想から生まれる出来事“偉大な出来事”は、それ自体が様々な教訓を含有しているものだが、どれも教訓を有している。そうした教訓を学び取らなければならない。出来事の教訓とは、

 

一つには、賢明さ、覚醒、意識、

二つには、行動を起こす勇気、

三つには、苦難や危険を恐れず、未来に希望を抱くこと。

 

この三つの事柄である。まず理解すべきである。多くの人は、状況の重要性を理解していなかった。しかし当時の人々は、(自分たちの置かれている)状況と重要性を理解し、行動を起こした。この状況と重要性への理解、意識自体が、重要な事柄である。重要な状況が理解されたら、次は、行動を起こす勇気と気迫を持たなければならない。これが二つ目の点。そしてその後は、この行動を、希望を抱いた心で、神に頼り、神を信頼し、神に好意を寄せることで、実行に移さなければならない。教訓の一端はこれらの事柄なのである。

 

人々が神を心から信じる敬虔な人々でなかったら、彼らの心に信仰が波打っていなかったら、(たとえ、あの見識が芽生えていたとしても、役には立たなかったであろう。何の意味も成さず、行動にはつながらなかったことだろう。人々の信仰、人々の賢明さ、適切な局面での行動力、これら全てが役割を果たした。そしてこれが我々にとっての教訓となったのだ。現在もまた然り。そして今後も同様である。賢明さを保ちながら、出来事を追っていく必要があるのだ。

 

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