بسم الله الرحمن الرحیم
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において
来世へのプロセスにおいて私たちが“タクワー“が必須としていることは前回お話しました。
タクワーを得るためには、どうしたらいいのでしょうか?
また、サウムを行ってもタクワーを得ることが出来ない人が多いのはなぜなのでしょうか?
タクワーを手に入れる方法について、神はクルアーンの中でこのように明かされています。
クルアーン第2章バカラ45節
وَاسْتَعِينُوا بِالصَّبْرِ وَالصَّلَاةِ وَإِنَّهَا لَكَبِيرَةٌ إِلَّا عَلَى الْخَاشِعِينَ ﴿۴۵﴾
45.忍耐と礼拝によって、(アッラーの)御助けを請い願いなさい。だがそれは、(主を畏れる)謙虚な者でなければ本当に難かしいこと。
اسْتَعِينُو :動詞の命令形で「助を請い願え!」の意
الصَّبْرِ :忍耐(シーア派の何人かのイマームたちも“サウム(断食)は忍耐である“と仰っています。つまり、欲望に対する抵抗である。)
الصَّلَاةِ :礼拝
まず、この節を注意してみると「礼拝と忍耐によって」ではなく「忍耐と礼拝によって」という順番で述べられている点に気づかされます。
まず忍耐で次が礼拝の順で述べられている、その優美な点はどこであるのか?この節について、ここで説明が必要になります。
神は、この節で人間の心(魂)における闘争を間接的な形で命じられています。神は、来世へのプロセスにおいて私たちが必須としている“タクワー“を手に入れるための助けとなる2つのもの、つまり①忍耐(サウム)と②礼拝を私たちに紹介されています。そして、これらによって助けを求めるよう命じられているのです。
また神は私たちに、このプロセスにおける戦い(抵抗・闘争)の存在を指摘し、その戦いに勝利を収めるよう教えられます。この節は、忍耐と礼拝という2つの善き戦友を私たちに明示しています。
サウム(節制、自制)とはどのような種の忍耐で、どのように私たちを助ける武器となりうるのでしょうか?
サウムとは自分のあらゆる欲望に対して否定的な答えを与えることです。ラマダンにおいては、ラマダン以外の11か月にハラール(イスラム法で許されたもの)である事柄の数々がサウムを行う一定時刻ハラーム(イスラム法で禁じられたもの)となります。それを遵守することが、この30日間の義務となります。
そうすることによって「許されたもの、ハラールに対し私たちが抵抗することを習得するため」です。ハラールに対し抵抗することの出来る人間であれば、ハラームに対する抵抗が可能であることは明らかです。
忍耐(サウム)はそれを私たちに教えてくれるのです。
サウムを行うことは、私たちを惹きつける動物的な欲望・喜びの全てを私たちから取り除きます。
残念ながら一部の人はサウムとは、ただ単に飲食をしないこと“お腹に何も入れないことである“と考えています。でも実際はそうではありません。サウムが及ぶ範囲は広範なものなのです。
目で合法でないもの見ない(実物以外の映像、画像も含む)、同じくその耳で、心惹かれる音楽や誰かが口にする陰口を聞かない、またその舌で、喧嘩をしない、嘘をつかない、陰口を言わないなど。
禁じられたもの、合法ではないものから自分の目と耳と口などの5感をコントロールするのはもちろんのこと、(合法でない場面、事柄について考えたり想像したり、心の中で決定することなど)思考や想像といった心のコントロールまでもが含まれます。
“あらゆる面(の欲望)における完全なる節制・自制“これがサウムが本来行われるべき形なのです。
花の芳香を嗅ぐこと、(全体を水につけるとサウムが無効となるために)入浴などもサウムの最中にはマクルーフ(イスラム法で禁じられてはいないがしない方が良いとされること)とされます。
サウムによる暑さ・のどの渇き・空腹などを通じて、サーイム(サウムを行う人)は最後の審判と地獄の業火における気の遠くなるような規模のそれらを思い出します。地獄における場合の苦悩はそれだけではありません。そこに至っては地獄における数々の苦渋にも同時に耐えなければならならないのです。
サウムの最中、サーイムは表面的な飲食の節制に限らず、「物質的なあらゆる快楽“を断つ」必要があります。
人間の内面には“動物的欲望へ引き付ける面“と“神へと引き付ける面“という両面が存在します。サウムを行い物質的なあらゆる快楽を断つと、動物的な欲望へと引き付ける面への栄養供給が阻止されます。そうすることによって神へと引き付ける面への栄養供給を効果的に行う下地が整うのです。
神へと引き付ける面への栄養のうち、最高のものが礼拝(サラート)です。
サーイムは忍耐(サウム)によって動物的欲望へ引き付ける面を完全に断ち、本来あるべき姿ではない自分を閉じます。
その一方で、礼拝(サラート)を捧げ、クルアーンを読み、唱念(ズィクル)などの崇拝行為を行い神的栄養(心(魂)への清らかな食事)を蓄えます。
ラマダンの1か月間、サウム(節制)の法・忍耐によってサーイムは本来あるべき姿ではない動物的な自分の部分に圧力をかけ続けます。そしてこの間、本来あるべき真の自分(神的面)にのみ栄養を与えます。その結果は明らかです。
神的価値が支配する心(魂)、つまり神の命に従う心(魂)=私たちにとって来世での必須項目である“タクワー“が備わるのです。
「忍耐と礼拝によって助を乞いなさい」という表現は非常に正確なものです。
これら2つから助けを請いなさい!こうすることで、“タクワーを手に入れることが可能になる“と神は教えられるのです。
人間的価値や永遠の来世を“不要なもの“と考え、タクワーなど本来人間として必須である神的価値を見出すことが出来ない人は、朝起きてから夜寝るまでの全ての努力が動物的価値に基づいたものとなり、そのためにのみ奮闘します。
動物的価値がその人の心(魂)を制するため、いつも動物的喜びを追求します。(自分の美しさ、所有する洋服や車や家などについて)自慢したり、見栄を張ります。より多く(の財産や子女など)を求め競い合います。また、相手を打ち負かすことで優越感を感じます。そのようである限り、“忍耐と礼拝に助を請うこと“が出来ません。忍耐と礼拝を助けの手段であるとは判断しませんし、出来ません。ラマダンが到来しても、“イード(祝祭の日)がやって来た!“とは感じません。
一方、本来あるべき姿の人・神的価値を見出す人にとってはラマダンこそがイードなのです。
ラマダンを“神の友のイード“と表現されたシーア派4代目イマーム サッジャード(AS)は、ラマダンとの別れの祈り(サヒーフェ サッジャーディーエ45番)の中でこのように嘆かれます。
و غمنا و اوحشنا انصرافه عنا
「(あなた、ラマダンが)私たちから去り行くこと私たちは悲しみ、また恐れを感じる」
神的価値が心(魂)を征する人は、ラマダンの到来を喜び祝いその終了を悲しみます。
動物的面に価値を見出す心(魂)をもつ人にとって、ラマダンは悲しい月でしかありません。心を制する動物的部分が困難に陥るためにラマダンが到来しても「ああ、また来たか。」と考えます。動物的、または物質的な喜びを得られなことが辛いのです。
「義務だから」「地獄に行きたくないから」というような理由だけでも、1か月の断食をやり遂げることは出来ます。しかし、そのためだけの理由による断食は、本来あるべきサウムとは異なります。断食は出来ても、問題の部分を自分から追い出そうと考えるこがありません。
全ての人が、サウムによってタクワーを得ることが出来ないのはこのためです。
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