1 9月 2016 - 15:05
9代目イマーム   イマーム ジャワード(AS)

太陰暦ズル・カアダ(11月)29日が命日の、シーア派9代目イマームであるイマーム ジャワード(AS)について紹介します。

イマーム ムハンマド アル・ジャワード(AS)は9代目イマームである。ヒジラ195年ラジャブ10日金曜日、マディーナ(メディナ)において父8代目イマームリダー(AS)と母サビーカフの間に誕生した。彼の通称はアブー ジャッファルであるが、彼の有名な称号はアル・ジャワードもしくはアッ・タキーである。5代目イマーム ムハンマド バーキル(AS)が「アブー ジャッファル」と呼ばれるので歴史家たちはこのイマームのことを「アブー ジャッファル二世」と呼ぶ。

 

幼年時代:

イマーム ムハンマド アル・ジャワード(AS)は4年間その父の聖なるイマーム・リダー(AS)によって育てられた。周囲の状況によってやむを得ずイマーム・リダー(AS)は幼い息子をのコアしてメディナからイランのホラーサーンに移住しなければならなかった。イマームは統治している王たちの油断できない性格を十分に知っていたので再びメディナに帰ることはあるまいと確信していた。そこでメディナを出発する前に息子のムハンマド アル・ジャワード(AS)を後継者と宣言し、その持っているすべての神的知識と精神的神髄を伝えた。

 

イマーマト(イマーム職継承):

イマーム・リダー(AS)はヒジラ203年サファル17日に毒によって殉教したので、直ちににイマーム ムハンマド アル・ジャワード(AS)がイマーム職の責任を取るようアッラーによって任命された。イマームは8歳という若さであったので知識において達することのできる領域があるはずであり、また実際的知識を得るチャンスも手段もなかったはずである。ところが2~3日後に彼は当時の最高の学者たちとフィクフ(イスラーム法学)、ハディース(伝承)、タフスィール(クルアーン解釈)などに関する問題で討論し彼等を凌駕したばかりでなく、学者たちがイマームの学の深さと卓越性に脱帽し感嘆の声をあげて承認したということが知れ渡った。まさにその時から世界は「イマームが神の知識を持ち、イマームが持っているその知識は学んで得たものではなくアッラーによって与えられたものである」ということを認識した。

学問的業績とその卓越:

イマーム ムハンマド アル・ジャワード(AS)の生涯はその前任者たち、後継者たちよりも短かった。彼は8歳の時にイマームになり25歳の時に毒殺され殉教した。それにもかかわらず彼の学問的著述は多く、大いに尊敬され高く評価されている。

イマーム ジャワード(AS)は聖預言者ムハンマド(SAAS)の愛情とイマーム アリー(AS)の才能の権化であった。彼の遺伝的特質は勇敢、大胆不敵、愛、学問、許し、忍耐から成っていた。彼の特質、性格の中で最も輝かしく最も傑出していた面は何らの差別することなくすべての人を親切にもてなし丁重に、必要とする人たちを助け、どのような環境の下でも平等を守り、簡素な生活を送り、貧しいもの、家のないものを助け、知識を獲得することに関心のある人々に学を伝え、人々を「正しい道(復活の道)」に導いたことである。

イラクへの移住:

アッバース帝国の強化のため、カリフ(王):アル・マムーンはアフルルバイト(AS)と常に友好関係を保ち続けてきたイラン人たちの賛成と支持を得るのが絶対必要であることを認識した。その結果アル・マムーンは政治的見地からバヌー・ファーティマ(ファーティマ(SA)の子孫)とバヌーアッバース(アッバース家)を結び合わせ、そのことによってシーア派たちの好意を得る必要に迫られていた。したがって彼はイマーム・リダー(AS)の意志に逆らってイマームを後継者であると宣言し、さらに妹のムンム・ハビーバフをイマームに嫁がせた。アル・マムーンはイマーム・リダー(AS)が国の政治的問題に、カリフを支援することを期待した。しかしイマームはそのような政治的事柄には何らの関心もなく、しかも民衆がイマームを精神的偉大さゆえにますますイマームに服従しつつあるのを見た時、彼はイマームを毒殺した。しかしイマーム・リダー(AS)を相続人、後継者として指名せざるを得なかったような緊急事態は依然として続いた。そこでカリフはその娘のウンムル・ファドルをイマーム・リダー(AS)の息子であるムハンマド アル・ジャワード(AS)に嫁がせることを望み、そのためにイマームをメディナからイラクに呼び寄せた。バヌー アッバースはカリフがその娘をイマームと結婚させようと計画していることを知って非常に困惑した。指導的人物たちの代表団がカリフの意向を撤回させようといろいろ画策した。しかしカリフはイマームの学の深さと卓越さを讃嘆するのみであった。イマーム ジャワード(AS)は年こそまだ若いが、そのすべての徳性において彼の父の真の後継者であって、イスラム世界の学問的に最も深い学者たちも彼と論争することができないと言った。アル・マムーンが「イマームが卓越しているのはその学問の深さのせいである」とするのを知ったアッバース家の者たちはイマームと論争させるためにバクダッドにおける最大の学者であり法学者であるヤヒヤー イブン アクサムを選んだ。

アル・マムーンは布告を発し、コンテストのために大集会を催したが、王国のあらゆる地方からおびただしい人々が集まってきた。高位高官を別にして、学者と学識経験者たちだけのために 900の席が用意された。世界はその若い子供がどのようにしてイラクにおける宗教的法(カーディル・クダート)のベテラン判事・最大の学者と論戦することができるのかと不思議に思った。

イマーム ムハンマド アル・ジャワード(AS)は玉座に着いたアルマムーンの側にヤヒヤー イブン アクサムと向かい合って席に着いた。ヤヒヤはイマームに問いかけた:

“あなたに質問することをお許し願えますか?”と

‘お望みのことは何でもお聞きください“とイマームはその先祖伝来の特徴ある調子で言った

そこでヤヒヤーはイマームに尋ねた:“ある人が「イフラム(巡礼中にまとう清浄な衣服)」の状態にある間に狩りに耽るとする。その人に対するあなたのご意見は何でしょうか?”と

(宗教的法典によれば巡礼中の狩猟は禁止されている)

直ちにイマームは答えた:あなたの質問は漠然としていて間違っている。その人はカーバ神殿の管区内で狩りをしたのか、それとも外であったのか?その人は文字が読めたのか、それとも文盲であったのか?その人は奴隷であったのか、それとも自由人であったのか?その人は未成年であったのか、それとも成年であったのか?その人はそれが最初であったのか、それとも前にも行ったことがあるのか?その打たれたのは鳥であったのか、それともそれ以外の動物であったのか?獲物は小さかったのか、それともを大きかったのか?その人が狩猟を行ったのは昼間であったのか、それとも夜であったのか?その人は後悔をしたのか、それとも正しいと主張したのか?その人はひそかに狩りをしたのか、それとも公然としたのか?その「イフラム」はウムラ(小巡礼)のためであったのか、それとハッジ(大巡礼)のためであったのか?これらの点を明確に述べるべきであった。これらがすべて明確にされない限り、この質問に対する明確な答えはできない“と

イマームのこれらの言葉をき、アル・クァーディーはびっくりし、集まっていたものすべてがものも言えないくらい唖然とした。アル・マムーンはこの上なく喜んだ。彼は彼の喜びと感嘆の感情を次のように表現した。ブラボー!良くやった!おおアブー ジャファル!(アフサント アフサント ヤー アブー ジャッファル!)あなたの学の深さと業績は讃嘆を通り越した上にある“と。

アル・マムーンはイマームの反対質問を聞きたいと思い、イマームに次のように言った:“あなたもヤヒヤーに質問してもよい“と。そこでヤヒヤーも渋々イマームに言った:“私に対し、何でも質問して下さい。もし私が答えられるならばお答えする。そうでなければあなたが答えて下さい”と

そこでイマームはヤヒヤーに質問したが彼は答えることが出来なかった。最後にイマームがその答えを述べた。

そこでアル・マムーンは聴衆に次のように言った“イマームはアッラーによって「知識と学問の宝庫」として選ばれた家計の出であると私は言ったではないか?この家の子供にさえ太刀打ちできる者が果たして世界にいるであろうか?と。

すべてのものが叫んだ:“疑いもなく、ムハンマド イブン アリー アル・ジャワード(AS)に匹敵するものはない”と。

同じ集まりにおいてアルマムーンはその娘のウンムル・ファドルをイマームに嫁がせ、その喜びの印として彼の国民に恩赦を施し贈り物を公平に配った。結婚後1年にしてイマームは妻をバグダッドからメディナに帰り、そこでアッラーの教えを説くことに着手した。

 

死去:

アル・マムーンが死んだあと、アル・ムタシムがカリフになって王座に就いた。彼はイマームに対し、迫害を始める機会を狙い、イマームに対し、意地悪と悪意を顕わにした。彼はイマームをバクダッドに呼びつけた。イマームはヒジラ220年ムハッラム9日バグダッドに着いたが、アル・ムタシムはその年の間にイマームを毒殺した。イマームはヒジラ220年ズル・カアダ(11月)29日この世を去った。イマームはイラク バグダッド郊外のアル・カーズィミーヤに祖父7代目イマーム ムーサー アル・カズィム(AS)の側に葬られている。

「イスラーム案内(シーア的観点より) 澤田沙葉 訳」より引用

/309