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source : Parstoday
月曜日

4日 9月 2023年

21:14:47
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ドキュメンタリー;「ここは私の家です」

ドキュメンタリー「ここは私の家です」は、世界各地からシーア派3代目イマーム・ホサインの殉教40日忌の追悼行事アルバインに参加するために世界各地からイラクやそのカルバラーにやって来た外国人巡礼者らとのインタビュー番組です。

私は、サーラー・ホセインと申します。アメリカ出身です。

ニュージャージー州サマセット郡ブリッジウォーターに住んでいます。

ニューヨークの街を歩いてみると

そこは急速な町で、誰もが自分の用事を済ませようとしています。

しかし、ここで歩いていたら

時には見知らぬ人が自分の方にやってきて、元気ですかと尋ねられます。

その質問内容は、どこの国から来たのか、いつ自国に帰るのか、自分の家族に何か助けは必要か、などです。

逆に、アメリカでは、誰かから何かを聞かれることはありません。

つまり、アメリカではだれもがみんな自分のことで手いっぱいなのです。誰かに近づいて何かを尋ねても、何も答えてはくれません。

 

カナダでは、個人空間という概念が存在します。

例えば、私の個人空間です。もし、あなたがもっと近づけば、個人ラインを超えることになります。

しかし、ここでは個人空間なるものは存在しません。

誰でもこのくらいの距離まで、あなたに近づける。それで何の問題もありません。

誰も、この個人的な境界線を越えたからと言って、警察に通報することはありません。だからここでは、この百万人単位の群衆とともに、

皆で一緒に行進するので、個人的空間は必要ありません。

そしてこれは、カナダと比べても非常に興味深い、このルートの特徴の1つです。د

 

ここでは、溢れんばかりの情愛に満ちています。そして私も、いたるところで情愛を感じます。

 

彼らもここにきて、この現状を間近に見るべきだと思います。

私は、カナダ・モントリオールの地元紙向けに記事を書きました。

その記事では、ここでは1つの大行進が90kmにも及び、

沢山の食事が用意されている、と書きました。

そして、ここでは貧しい人々さえも私たちに対し、自分の家の扉を開けてくれること、そしてほかの国やほかの宗教ではこのような現象は見られません。

これは奇跡的な例です。

 

自分は貧しい暮らしをしている人々が、私達に食事をふるまってくれます。それは90kmにも及ぶ食卓のようなものです。

この食卓には、常に飲食物が用意されています。

 

オランダ人は常に、他人よりも自分のことの方をよく考えます。

例えば、誰かが食事をしている時に

よその人が訪ねてきて玄関の呼び鈴を鳴らそうものなら、

その家の住人はドアを開けてこう言います。「すみません、今食事中なので、外に出ていてもらえますか」

そして、ドアを閉めてしまいます、これがオランダの実状です。

しかし、ここイラクでは、誰かの家の扉を叩けば、その家の主人はたとえ食事中でも

「どうぞ、中に入ってきてください、一緒に食事をしましょう」と言ってくれます。

オランダではこのようなことはありません。そこでは、誰もあなたを助けてはくれません。

時には自分の両親でさえ助けてくれないこともあります。そのため、生きていくのがつらいこともあります。

 

一体、世界のどこで食事をしなさいなどと勧められるでしょうか?

一体、水をどうぞなどと勧められるような光景が世界のどこで見られるでしょうか?

彼らは、これをどうぞ、どうぞお取りくださいと言ってきます。

現代の世界では、逆に誰もがあなたの手から何かを取ろうとします。何かを与えようとはしません。

これは、イマームホサインの情愛でしかありません。

ケニア首都ナイロビでは、歩いていると腕時計を盗まれる可能性もありますし、財布をすられるかもしれません。

しかし、ここでは人々があなたに贈り物をしたがります。状況は全然違うものです。

 

現在の私の暮らしはアメリカにありますが、ここカルバラーにあるものと比べて全く無意味です。私は、心からここに留まりたく思います。

私は帰りたくありません。毎年ここに来れるよう願っています。

もっとも、家の中の状況や条件次第ですが、

でも本当に、アメリカではなく、ここに留まりたいです。

 

確かに私はレバノン人で、肉体はレバノンですが、魂はカルバラーにあります。カルバラーは私の家のようなもので、ここは私の実家です。

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