10 8月 2016 - 18:15
8代目イマーム イマーム リダー(AS)

シーア派8代目イマーム イマーム リダー(AS)について紹介いたします。

イマーム リダー(AS)はヒジラ148年ズ・ル カアダ(イスラム暦11月)11日木曜日、メディナにおいて誕生した。父は7代目イマーム ムーサー・カズィム(AS)母はウンム・ルバニ-ン ナジュマフ(SA)である。

 

イマーム リダー(AS)は35年間その父の聖なる導きの下にあった。父によって与えられたすばらしい訓練と教育と相まってイマーム自身の宗教的問題に対するするどい洞察力と輝きはイマームを精神的指導者としてユニークで独特な存在として浮き彫りにした。イマーム リーダー(AS)は偉大な預言者(SAAS)の献身とイマーム アリー(AS)の勇気・寛大の生ける例であった。

継承:

イマーム ムーサー・カズィムは権力の座にある政府がイマームという聖なる職に対して攻撃的であることをよく知っていた。そのためその生きている間に171人の代表的な宗教的聖なる人々の前で、イマーム リーダーが後継者であることを宣言し、彼の息子たち、家族全員にイマーム リダー(AS)に服従し、彼の亡きあとはすべてのことをイマーム リダー(AS)に尋ねるよう求めた。彼はまた正しく署名し16人を下らない代表者たちが保証した「イマーム リダー(AS)が後継者である」と宣言した書類を残した。それらの必要なすべての手配りはイマームの死後、混乱がおこらないように偉大がイマームによってなされた。

イマーム職に就く:

イマームムーサーカズィムは獄中で毒を盛られヒジラ183年ラジャブ25日に死去したので、直ちにその日イマーム リダー(AS)がムスリム世界の8代目イマームとして継承したことが発表された。イマーム リダー(AS)はハールーン アル・ラシードの治政のもとで最も好ましくない環境の聖なるクルアーンの正しい注釈を発表するという大仕事をしなければならなかった。多くの信ずる者たちが投獄され、投獄されずに自由である者たちは語ることのできない残虐と苦難に直面していた。それにもかかわらずイマーム リダー(AS)はそのような極度に混乱した期間にあっても平和的な方法で偉大な預言者のミッションを遂行するのに献身的に努めた。聖預言者とその子孫の教えが広く広がったのは主としてイマームの努力のおかげであると言わなければならない。

イマーム リダー(AS)はその先祖から頭と心の偉大な資質を相続した。彼は多彩な才能の持ち主で多くの言葉に通じていた。イブヌル・アシール アル・ジャザリーは「イマーム リダー(AS)は疑いなくヒジラ2世紀における最大の賢人であり、聖人であり、学者である」と言っているがまことに正しい。

イマームがアル・マムーンの護衛隊によってメディナからホラーサーンに無理やり連れていかれる途中、馬の背にのせられ、ナイサーブールに到着した時のことである。彼の周りに人々が黒山のように集まり、偉大なイマームを一目見ようと道路という道路は人で溢れた。当時の2人ての偉大な学者であったアブー ダルアフ アル・ラーヂーとムハンマド イブン アラスムが人々の前に進み出てイマームに“人々がイマームの声を聞くことができるように暫くそこに休止してください“と頼んだ。彼らはまだイマームに何か人々に話して下さるように依頼した。イマームはその願いを入れてマンモスのような人だかりに向かって「ラー イラーハ イッラッ ラー」の本当の意味を簡単に説明した。続いてイマームはアッラーに触れながら「カリマフ」(ラー イラーハ イッラッ ラー・ムハンマダン ラスールッ ラー)と唱えることはアッラーの砦であってこの砦に入るものは誰でもアッラーの怒りから自分を救うことができる”と語った。

彼は暫く休息し「砦に入るためには2~3の条件があり、その中の最大の条件は「時のイマーム」に真剣、完全に服従することである。預言者及び預言者の子孫に対して忠実でないことは砦に入る権利を放棄するものである。全能のアッラーのお喜びを得るための唯一の道は預言者とその子孫に従うことであり、それが救いと永遠への唯一の道である“と極めて大胆、率直に説明した。

上述の出来事はイマーム リダー(AS)の偉大な人気と、人々がイマームに対して寄せていた愛、忠誠、尊敬を明らかに物語るものである。時のカリフ・王であるアル・マムーンは、もし彼もまたこの偉大な指導者:イマームに忠誠を表明しなければ長くその地位にとどまることができないことを十分に認識していたし、また彼の秘密警察はイランの人々がイマームに対して心から忠実であって、人々の心を掴むためには王もまたイマームリーダー(AS)を尊敬し特別に配慮しているゼスチャーを示す必要があること明らかにしていた。アル・マムーンは極めて抜け目のない人物であった。彼はイマーム リダー(AS)を招待し、王の王座の相続権をイマームに提供することにした。イマームは王の命令によって呼び出され、彼が静かに暮らしていたメディナを離れてアル・マムーンの宮殿に出頭することを強制された。

イマームが到着するとアル・マムーンはイマームに歓迎と尊敬の意を表して言った:“わたくしはカリフの地位から離れあなたに譲りたいと思う”と。しかしイマームはその申し入れを辞退した。そこでアル・マムーンは“もしあなたがわたしの申し入れを吐き出されるなら拒否されるなら、わたくしの後の相続人になってもらいたい”と書いた手紙を差し出した。しかしイマームは再び彼の提案を断固として拒否した。アル・マムーンはイマームを呼び出した。その席にはカリフと軍事と民事の両方を管轄する地位にあるアル・ファドル イブン サフルだけがいて、そのほかには誰もいなかった。アル・マムーンはイマームに言った“わたくしはあなたがムスリムに対する権力の座に就き、わたくしはそれをあなたに与えることによってその責任から解放されることは相応しいと思う”と。イマームが再びその申し出を断るとアル・マムーンはその拒否によってイマームを脅迫するが如くに言った。彼は言った。ウマル イブン アル・カッターブ(2代目カリフ)は(継承者を任命するための)「相談のための委員会」(シューラー)を設けた。その中にはあなたの先祖の「信ずる者の司令官」アリー イブン アビー ターリブも含まれていた。ウマルは「その決定に反対する者は誰でも死刑に処せられる」と規定した。それゆえわたくしがあなたに求めることを逃れる道はない。私はあなたの拒否を無視する“と。

それに答えてイマームは言った:“「わたくしは指揮せず、命令せず、法的な決定を下さず、判決を下さず、任命せず、解雇せず、何ものも現状のままで変更しない」という条件ならば、その相続のことについて、わたくしに求めていることに同意する”と。アル・マムーンはそれを全て承諾した。

アル・マムーンがイマームリーダー(AS)に忠誠を誓わせた日、それに出席していたイマームの最も親しい同僚の一人が言った:“その日私はイマームの正面にいた。私が行われつつあることに幸福感を味わっている時イマームはわたくしの方を見て、もっと近くへ来るようにサインした。そこでだれも聞き取れないような声でイマームは言った”このことに魅惑されて幸福感に耽ってはならない。それには決められた別の目的がある“と。

アル・アッラマー(法学者)のアシュ・シムリーの本「アル・マムーン」によってわれわれは何故アル・マムーンがその指導者としての地位をイマーム リダー(AS)に提供することを決心したか明らかに理解することができる。

イマーム リダー(AS)は8代目イマームであって、アル・マムーンはイマームの敬神、叡智、知識、謙遜、礼節そして人格のゆえにイマームに最大限評価を与えざるを得なかった。それゆえアル・マムーンはイマームを彼の玉座の正当な後継者として指定することに決心した。ヒジラ200年の初め、彼はアッバース家の者たちを招集した。3万3千のアッバース家の者たちが招待に応じ、宮廷の賓客として歓待された。彼等が首都に滞在している間、彼は非常に綿密に観察し、彼らの能力を書き留めたが、結局彼の後継者になる資格のある者は誰もいないという結論に達した。そこでヒジラ201年の集まりにおいて彼は「アッバース家の中には誰も彼を継ぐに相応しい者がいない」ことを断言する口調で皆に告げた、彼はこの集まりにおいてイマーム リダー(AS)への忠誠を人々に求め、宮廷のローブ(衣服)は将来イマームの象徴である「緑色」にすると宣言した。さらに“イマーム リダー(AS)がアル・マムーンの後を継ぐ”ことを宣言する王の命令が布告された。

後継者であることを宣言された後、豪勢なこの世的な宮廷で生活を楽しむ機会はいくらでもあるにもかかわらずイマームは物質的な快楽には何らの関心もなく、もっぱら預言者の教えの真実と考えとクルアーンを伝えることに献身した。イマームはその時間のほとんどを神への祈りと人々への奉仕のために費やした。

宮殿の中で最高の地位を約束され、イマームに対してなされた譲歩を最大限に活用して、彼はカルバラにおける殉教を記念するマジャーリー(集会)を組織した。これらのマジャーリースは最初イマーム バーキルとイマーム サーディクの時に開かれたが、イマーム リダー(AS)はカルバラーの悲劇の道徳的面とイマーム フサイン(AS)及びその同僚たちの苦難を劇的に描写した詩人たちを励ますことによって集会に新しい息吹、刺激をあたえた。

アル・マムーンはイマームの高くなりつつある人気に非常に神経をとがらせ、自分自身の野心的、邪悪な計画を成就させるためにのみ利用し、その手の込んだ巧妙な計画にイマームの保証を取り付けようとしてイマームを玉座の後継者に任命した。しかしイマームはイスラムの教えに反するどのような計画にも当然のこととして是認を与えることを拒否した。そこでアル・マムーンはイマームに失望し、イマームの高くなりつつある人気を一気に抑制しようと決心し、イマームを殺すという伝統的方法によって自分の生き残りを確実にしようとした。そのために巧妙にイマームを夕食に招待し、毒を入れた葡萄を振る舞った。イマームは55歳でヒジラ203年サファル17日、火曜日に殉教し、マシュハド(イランのホラーサーン)に葬られた。イマームの荘厳な廟はイマームの持っていた偉大な人間性を雄弁に物語っている。無数のムスリムたちはこのイマームに敬意を表すために毎年彼の廟を訪ねる。

「イスラーム案内(シーア的観点より) 澤田沙葉 訳」より引用

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