イマーム ムーサー・カズィム(AS)はヒジラ128年サファル(イスラム暦2月)7日日曜日、メッカとメディナの間のアブワーというところで誕生しました。
両親:
イマーム ムーサー・カズィム(AS)は6代目イマーム サーディク(AS)の息子で、母はバーバリー国から迎えられた貴族の娘「ハミーダフ」である。
幼年時代:
イマーム ムーサー・カズィム(AS)はその聖なる父の愛情あふれる保護のもとに20年間を過ごした。彼の生来の天才的才能にめぐまれた徳性はイマーム サーディク(AS)によって与えられた導きと啓蒙された教育と一体となって、そのあとの人格の中に顕示されている。彼は幼年時代のときでさえ神的知識を十分に体得していた。
アルアラマーアルマジュリシーは次のように述べている“あるアブー ハニーファが「マサーイル」(宗教的事項)について質問するためにイマーム サーディク(AS)の住居を訪ねた。イマームは寝ていたのでイマームが起きるまで外で待っていた。その時5歳になるイイマーム ムーサー・カズィム(AS)が家から出てきた。アブー ハニーファは彼に丁寧に挨拶して尋ねた:おお!聖なる予言者の息子よ!人間の行為についてあなたのご意見をお聞きしたい。人間は自分自身でそれをするのでしょうか、それとも神が人間にそれをさせられるのでしょうか?と。”おお!アブーハニーファよ!“と、5歳のイマームは直ちにその祖先伝来の特徴のある調子で答えた。”人間の行為には三つの可能性が考えられる。第1は人間は全く無力で神だけがそれをなされるということ。第2は神と人間がそれをなすのに等しく分かち合うこと。第3は人間だけならすということである。まで第1の過仮定が正しいとすると、人間が犯したのではない罪のために神が神の創造されたものを罰せられることになり、それは明らかに神の不正であることを証明する。次に、第2の条件についてであるが、もし神が神も等しく共犯者である罪のために人間を罰せられるとするならば、その時は神でさえ不正ということになる。しかし神の場合はそのどちらも望ましくないことは明らかである。かくして、当然として第3の場合が残される、すなわち人間はその行為に対し、全面的に責任を負う“と。
イマーム職に就く:
イマーム サーディク(AS)がヒジラ148年シャウワル(10月)25日に最後の息を引き取ると直ちにイマーム ムーサー・カズィム(AS)が7代目のイマームとしてイマームの聖なる地位を継承した。彼のイマームとしての期間は35年間であった。イマームとしての最初の10年間はその聖なる責任を平和的に果たし、預言者の教えを伝えることに専念することができた。しかしその後間もなくイマームは時の統治者たちの犠牲となり、その人生の大半を牢獄で過ごすことになった。
政治的状況:
イマーム ムーサー・カズィム(AS)その暴君的で野蛮な治政で知られるアッバース朝の横暴な専制的統治の下で言語に絶する苦難に満ちた時を過した。イマームはアル・マンスール アッ・ダワーニクィー、アル・マハディー、ハールーン アル・ラシードの治政を目撃した。アル・マンスールとハールーン アル・ラシードは、聖預言者の罪のない子孫たちの数えきれないほど多くを殺した。何千というこれらの殉教者たちは壁の中に生き埋めにされ、あるいは生きている間は恐ろしく暗い牢獄報の中に閉じ込められていた。これらの野蛮な王たちは一片の情も正義の感情も持ち合わせず、人間が苦しむのを見て楽しむために殺し、拷問にかけた。
イマーム ムーサー・カズィム(AS)はアル・マンスールが新しいバグダッドの都市造りに忙しくてイマームのことに構っておる暇がなかったために、その暴虐から救われていた。ヒジラ157年にバグダッドの町が完成すると、その1年後に町の建設者アル・マンスールは死んだ。そこでその子のアル・マハディーがカリフの王座に就いた。2、3年の間は彼はイマームに対し、変化はなかった。ヒジラ164年彼はメディナに来てイマームについての偉大な評判を聞いて嫉妬の念を抑えることができなかった。アフルルバイトに対する、先祖代々の悪意の炎に再び火がついたのである。彼はなんとかしてイマームを一緒にバグダッドに連れていき、投獄しようと図った。しかし1年後に彼はそれが誤りであることに気付きイマームを釈放した。アル・マハディーの後を継いだアル・ハーディーはわずか1年で世を去った。さてヒジラ170年に最も残忍で専制的な王ハールーン アル・ラシードがアッバース帝国の頂点に立った。イマームが毒殺されるまで悲惨な牢獄の中で人生の大半をすごしたのはこのハールーン アル・ラシードの治政の下であった。
道徳的、倫理的卓越:
イマームが道徳的、倫理的に卓越していたことについてイブン ハジャール アル・ハイタミーは次のように述べている“イマーム ムーサー・カズィム(AS)はその忍耐と寛容のために「アル・カーズィム」(怒りを飲み込む者)という称号をあたえられた。イマームはまことに美徳と寛大さの権化であった。イマームは夜は神への祈りにささげ、昼は断食した。イマームは自分に悪をなすものを常に許した。”
彼は人々に対し、非常に親切で愛情深く、メディナの貧しい人々、困窮に陥っている人々を助けて応援し、現金、食料、衣類そのほかの生活必需品を密かに与えた。それらの贈り物を受けた者たちは恩人がいったい誰であるか知ろうとしたがイマームが生きている間は遂に判らなかった。
文学的業績:
時代と環境はイマーム ムーサー・カズィム(AS)に、父であるイマーム サーディク(AS)や祖父のイマーム バーキル(AS)が行ったような宗教的知識を伝えるための研究所を確立することを許さなかった。彼は会衆に演説することさえ絶対許されなかった。彼は静かに宣教し人々を導く使命を遂行した。
殉教:
ヒジラ179年ハールーン アル・ラシードはメディナ訪ねた。イマーム ムーサー・カズィム(AS)がそこの人々の間に与えている偉大な影響と名声を見た時、アフルルバイトに対する悪意と嫉妬の炎がムラムラと心の中に燃え上がった。彼は聖預言者の廟で祈っているイマームを逮捕し、バグダッドで約4年間投獄した。イマームは55歳であったヒジラ183年ラジャブ(イスラム暦7月)25日バグダッドにおいてハールーン アル・ラシードによって毒をもって殺された。その遺体は辱めを免れることさえ出来ず、バグダッドの橋の上に晒された。しかし彼の帰依者たちがイマームの聖なる遺体をアル・カーズィミーヤ(イラク)に休むために葬るよう取り計らった。
「イスラーム案内(シーア的観点より) 澤田沙葉 訳」より引用
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