38年前のちょうど今頃(1987年7月)、ナチス戦犯で「リヨンの屠殺者」として知られるクラウス・バルビーが、フランスの裁判所で人道に対する罪で終身刑を宣告されました。仏リヨンのドイツ秘密警察の長官を務めたバルビーは、少なくとも7500人のフランス人を強制収容所に送り、さらに4000人近くを処刑しています。この「リヨンの屠殺者」は、約2年間ドイツでアメリカの秘密工作員として活動し、アメリカからの資金援助と身の安全保障を受けていました。しかし、彼はドイツ・ベルリンでフランス軍に足跡をつかまれることとなります。
「リヨンの屠殺者」ことクラウス・バルビーは第2次世界大戦中、ヴィシー政権下にあった仏リヨンでゲシュタポ(ナチス秘密警察)の長官を務め、フランス・レジスタンスの鎮圧を任務としていました。彼は残忍さとサディズムで知られ、しばしば囚人の拷問や処刑に自ら関与していました。複数の報道によれば、バルビーはフランス・レジスタンスの指導者ジャン・ムーランの逮捕に関与し、自ら殴り蹴るなどの暴行を加え殺害したとされています。
この戦争犯罪人は自らの職業そのものを非常に好んでいたことから、ドイツ軍がリヨンから強制撤退している最中でさえ、数百人に上る最後の囚人集団を列車に乗せてアウシュビッツに送り込んでいます。
彼は戦争終結とともにドイツに戻り、ヒトラーの敗北が確認された後、自分に関するゲシュタポとSS(ナチス親衛隊)の文書を破棄し、別の名前と人定事項により新たな人生をスタートさせました。
戦後、バルビーはフランス当局から恐ろしい戦争犯罪の容疑で指名手配されていたにもかかわらず、アメリカ陸軍情報部隊により共産主義ネットワークに対する工作員として採用されました。アメリカ側は彼を匿い、米占領下のドイツで偽名により生活することを許可しました。1951年、バルビーは南米へ逃亡し裁判を逃れたのです。
彼は数十年にわたりボリビアで公然と暮らしていましたが、ユダヤ人虐殺の戦犯探しで知られる弁護士のセルジュ・クラルスフェルト氏とその妻ベアタという夫婦によって身元が特定されました。
1983年、フランスはようやく彼を裁判にかけるために引き渡すことに成功し、今から38年前の1987年7月、バルビーはついに終身刑を宣告されたのです。
フランスのメディアはバルビーを「リヨンの屠殺人」と呼び、同国の裁判所は彼に最高刑である終身刑を宣告しました(当時フランスの法律は改正され、最高刑は死刑から終身刑に変更)。当時73歳だった「リヨンの屠殺人」は収監され、生涯を終えるまで(1991年)獄中に置かれました。
裁判中、バルビーは自らの罪を悔いる様子を見せることはありませんでした。この裁判はフランス人にとって苦痛に満ちたものであり、人々の記憶におけるバルビーとナチスによる傷の数々を蒸し返らせるものでした。
ゲシュタポの指導者だったバルビーは、341件の反人道罪で有罪判決を受けました。1983年、アメリカはバルビーを雇用し、起訴を免れさせたことについてフランスに正式に謝罪しました。「リヨンの屠殺者」の裁判は、国際法上最も重大な犯罪の訴追における転換点とされています。
一方でガザの虐殺者は
それから長年が経過した現在、またもやアメリカの支援を受けた別の虐殺者が現れました。それは名前や肩書き、場所こそ違えど、シオニストが牛耳る虐殺政権の首相、ベンヤミン・ネタニヤフ氏に他なりません。
米国はパレスチナ・ガザの虐殺者たるネタニヤフ氏と肩を並べて人々を虐殺し、武器を送付し、国際機関で対イスラエル決議に拒否権を行使する一方で、最近ではイスラエルに停戦を強く促していると主張しています。
「イスラエルの虐殺者」ことネタニヤフ氏は、2023年10月以降だけでガザ地区で5万6500人以上を殺害し、13万3642人を負傷させました。「ジェノサイドに次ぐジェノサイド」という言葉は、もはやネタニヤフにとって日常茶飯事と化しています。
停戦宣言にもかかわらず、この「ガザの虐殺者」は今なおガザの廃墟で血の洪水を解き放ち、食料センターの飢えた人々を容赦なく銃撃しています。
ここ数週間、米国が資金提供し、イスラエル政権の監督下にあるガザ地区の人道支援物資配給拠点は、深刻な人道的惨事の象徴と化しています。飢餓に苦しむパレスチナ人は食料配布を受けようとする中、「虐殺者」の指揮下にあるシオニスト政権側の狙撃や空爆の標的となっているのです。
世界は、人権擁護団体がガザの虐殺者ネタニヤフを裁くためにどのような行動に出るかを注視しています。果たして、国際社会はネタニヤフ氏を裁きの場に引きずり出すのか、それとも「ガザの虐殺者」に対する米のほう助によるガザ市民の大量虐殺を傍観し続けることになるのか、今後の成り行きが注目されます。
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