最高指導者の考える唯一神信仰

第3章 唯一神信仰の世界観の結果

  • ニュースコード : 794631
  • 出典 : Khamenei.ir
Brief

神の僕であることとは、すなわち自由であること、高潔であること、成長に向かうこと、成長に向け能う限りの手段を活用することである。

  

第3章 唯一神信仰の世界観の結果

 

【礼拝行為に相当するもの】

 

あるとき誰かを崇拝する。その存在を神聖なものと見なし、自然界を超えた力を持つものと考える形によって。歴史を通して、ある人々が神聖なものを、あるいは偶像を礼拝してきたように。礼拝といえば、まず思い浮かぶのは、何かを心から尊ぶ気持ち、神聖視することである。例えば、キリスト教徒がイエス・キリストを、あるいはその清らかな母親であるマリヤを一種の神聖な存在と見なしたように。キリストやマリヤの想像の産物である偶像の前にひれ伏し、涙を流し、それを礼拝したように。礼拝とは、人間が一つの存在に対し、それを神聖視し、心からの敬意を払い、より高い存在と見なし、頭を垂れたり姿勢を正したりし、ひれ伏し、ひざを折ること、またはそれを崇拝し、称賛し、両手を謙虚にそれに向かって伸ばすことに限られない。別の行為もまた存在する。それも「礼拝」と呼ぶことができる。第二の意味での礼拝と言うことができる。では、第二の意味での礼拝とはどんなものだろうか? 第二の意味での礼拝とは、服従である。誰に対してもただひたすら無条件に行う服従は、その人への礼拝行為といえる。

 

コーランによれば、礼拝とは、神以外の存在を拝むこととは、― ここでの存在とは、政治的な権力、宗教的な権力、人間の本質のような内面的な要素、人間の欲望、人間の存在を超えた存在でありながら、政治や宗教に集中した権力ではないもの、女性に対するもの、人間が誤った尊敬を抱く人間に対するもの、一人の友人に対するもの、これらに向かっての礼拝行為 ―。それはすなわちこれらに対する服従である。誰でも、誰か、あるいは何かに服従すれば、それに対して礼拝を行ったことになる。

 

【神と悪魔への礼拝】

 

礼拝という範疇はこれ以上に広いものである。服従だけでなく、全神経を一つのものに集中させることですら、礼拝行為である。人間は正しい言葉を聞いてはいけないのだろうか? 何かを語り、人々の感覚、全神経を惹きつけ、神の言葉で語る者に対し、人々は心を預け、思考を預け、精神や考えを委ねながら、神を礼拝しているのだ。だがその語り部が悪魔の言葉で語り、悪魔の言葉をささやき、神の思考哲学や理論に反する議論を行い、語るとき、人々がそれに耳を傾けるとすれば、それは悪魔を礼拝し、悪魔に服従することになる。すなわち完全にその人自身が悪魔である。

 

【唯一神信仰の社会】

 

唯一神信仰が一つの社会に出現したとき、全ての僕たちは同じ水準に置かれる。唯一神信仰の社会において、創造世界の所有者や源、不滅のもの、他を必要としない独立した存在、創造世界を支配するものが存在し、世界のあらゆる動きや現象が、その存在の力や意志によるものであるとき、人間たちは、黒人であろうと白人であろうと、様々な血統や人種、社会的な状況を持っていようと、互いに親族である。なぜなら神につながっているからだ。一つの場所につながっており、一つの場所から助けを得るからだ。これが唯一神信仰の絶対的かつ当然の帰結である。この見解では、人間が互いに結びついているだけでなく、唯一神という見方により、世界のあらゆる事物、生物、無生物、天と地、あらゆるものが互いに結びつき、関係し、全てが人間と親類関係にある。そのため、人間が目にし、感じ、理解する全てのものは、一つの地平線、一つの世界、一つの集団であり、健全な世界、安全な環境に置かれるのだ。

 

【イスラム社会のしるし】

 

ここで言うイスラム社会とは、その中で神への崇拝がその社会の全ての人々を支配する、またはより分かりやすく言えば、その社会にある全てのもの、全ての社会的な動きが、神の命に従い、神が語った事柄に従っている社会である。一つの社会の神に配する崇拝のしるしを、幾つかの点において明らかに目にすることができる。この幾つかの点が一つの社会に存在すれば、その社会は神の僕であり、その体制は神の体制である。

 

第一に、この社会を統治するのが神の僕たちであり、神に類するもの、並び称されるものが統治するのではない、ということである。圧制者が社会を支配してはならない。自らへと誘うもの、神ではなく自らを人々の服従を必要とする存在と見なすもの、フィルアウン(エジプトの圧制者)やナムルード(古代バビロニア帝国の圧制者)、その他、歴史上の圧制者のように、人々に自らへの奉仕を要求し、神のことを心で理解していないもの、彼らが社会を支配するのではなく、神の僕たちが社会を支配しなければならない。

 

第二に、その社会では神の戒律が適用され、人々は神の戒律を実践すべきだということである。人間の誤った弱い判断、欲望から下される戒律ではいけない。様々な決まりや法の枠組みを決めるのは、コーランであり、神の戒律であるべきである。

 

第三に、社会に公正が確立されていなければならない。そこに圧制が存在する社会は、神の社会ではない。

 

第四に、その社会では、人々、人間が尊重されるべきである。人類、人間がその社会で尊重されるべきであり、家畜のような手段として見なされてはならない。人類が万物の霊長、世界を管理する存在として見なされるべきであり、単に腹を満たし、労働させられるだけの存在として見なされてはならない。もし人間が気づいてもらえなければそのまま放置されたり、より高い目的に向かって羽ばたかない限り、そのまま放っておかれるようであってはならない。人間が社会で尊重されなければならない。神が、「まことに、アーダムの子孫を称賛せよ」と語っているのは、単なる儀礼の上でのことではない。これは原則なのである。イスラム社会にとっての基盤なのである。この原則が実践されていない場所はどこであろうとイスラム的ではない。人類が卑しめられる場所、人類が権力者の欲望に晒されている場所、人類が思考し、学び、自らの道を選択したり、理解し、認識した道、すなわち神の道において努力したりする権利がない場所、そこはイスラム社会ではない。

 

第五に、その社会に差別や優越が存在してはならない。黒人、白人、アラブ人、非アラブ人、どの民族、どの部族、その氏族、社会のどの階層、そのいずれも優越の原因となってはならない。人間がその人間性によって社会に存在し、その優越が敬虔さによって決められるべきである。これら全てのしるしが、イスラム初期に存在したように。

 

第六に、神の社会、イスラム社会のしるしの一つは、神の道における努力や戦い・ジハードである。ジハードが存在しない社会、神の道における努力が存在しない社会は、イスラム社会ではあり得ない。

 

【唯一神信仰が社会の経済構造に及ぼす影響】

 

唯一神信仰の社会では、誰もがこの社会において社会的特権を有していなければならない。全ての人が同じだけ富を有するという意味ではない。富を平等に分配するのではなく、機会や可能性を平等に与えるのだ。より狡猾な人間もいるだろうし、より怠け者の人間もいる。もし誰かが他の人よりよけいに働けば、より多くの賃金を稼ぐが、その人から賃金を奪って別の人に与え、富が平等になるようにするというようなことはない。そうではなく、社会の人々に、教育を受ける機会、労働を学ぶ機会、労働を行う機会が平等に与えられ、平等の機会が全ての人に与えられるのだ。

 

唯一神信仰が社会の経済構造に及ぼす影響とは、社会に均衡が存在すべきだということである。それは平等というのではなく、均衡が取れた状態である。アミーロルモオメニーン(シーア派初代イマーム、アリー)が統治の初期に、一つの責務として、統治を受け入れる根拠となった点として語った言葉がある。

 

「神は賢者たち、賢い者たちに対し、圧制者が腹を満たし、抑圧された人々が空腹に喘ぐような状態を黙って見過ごしてはならないという責務を与えた」

 

これはイスラムの経済体制の大きな標語として据えられ、このことに則ってイスラム経済が実現される。この均衡の取れた状態は、人間の神への信仰心によって生まれる。もし神がいなければ、この世界に人間を超えた所有者が存在しなければ、もし人間自身がその力を支えに、何でも手にしたものを所有し、自らのものと考えることができたなら、もちろん、社会の状況は異なるものになっていただろう。

 

唯一神信仰社会の財政問題を唯一神信仰では如何に考えるか、これは唯一神信仰が定める重要な事項のひとつであるが、コーランでは、「神があなた方に与えた財産は、神のものであり、恵まれない人々に、必要な場合に与えるがよい」とされ、人間が持つ全てのものは神のものであり、人間はそれを預かる人々に過ぎない。神が財産を人間の手に預け物として委ねているのだ。これが唯一神信仰の考え方として必要なものである。

 

【社会の道徳に対する唯一神信仰の影響】

 

唯一神信仰の社会や体制の中で暮らす個人一人一人の考え方、同胞たち、全ての人間との接し方、個人生活に対する対処方法は、物質的な体制の中で暮らす人々の状況とはかけ離れた状態にある。彼らは神と共に暮らし、神に求め、神を敬愛し、神を畏怖し、神に助けを乞い、自らを神の僕と見なし、神の僕たちに愛情を感じる。神の僕たちに圧制を加えることはなく、彼らを妬むこともない。彼らに対して欲を張ることを望まず、全ての美徳は神への信仰からくるものであり、イスラムの道徳の基盤は、神への信仰である。

 

【イスラム社会における唯一神思想による結果】

 

イスラム社会の議論の初めに、注目すべき根本的な問題がある。それに注目することは、イスラム社会の議論すべてに渡ってその人の助けとなり得る。それは、イスラム的な思想、イスラム的な考え方、唯一神信仰が、イスラム社会の全般、社会構造にどのような影響を及ぼしているか、ということである。すなわち、神を信じる人々の社会全体の構造は、神を信じない人々の社会とどのように異なるのか。神への信仰とは、人々が心と言葉で神を受け入れ、礼拝や断食、正直であることや嘘をつくことといった個人の行動、個人的な問題において神のことを考慮する、といった事柄に限られるのか。どこかの社会で、どんな形で、どんな制度で生活しようと問題はないのか、それとも、否、神への信仰は、唯一神を信じる人々の一般の生活において反映され、具現されなければならないのか。神への信仰が、人間の心や考え方を開花させるためだけにとどまらず、その考え方に沿った世界を造ることをも意味する、ということに疑いの余地はない。唯一神信仰、神への信心は、一神論者であるイスラム教徒の社会の統治システムにも、またこの社会の経済、そしてこの社会の一人一人の道徳にも影響を及ぼすのである。人々が神を信じる社会では、その統治も、その思想に則った統治でなければならない。すなわち、イスラムの教え、イスラム法、イスラムの戒律や規定が、人々の生活を統治しなければならない。社会でこの規定を施行する者として、誰よりも相応しく適しているのは、2つの根本となる明らかな性質を有する者である。一つは、この戒律、このイスラム法、イスラム法学に誰よりも精通し、神の戒律、神の法則を完全に習得していること。そしてもう一つは、この神の法や神の教えに精通している人物自身が、罪や故意の過ち、故意の逸脱を決して犯さない力を有していることである。すなわちそれこそが、イスラムの慣習で公正と呼ばれる事柄なのである。

 

【イスラム文化における自由の根源】

 

イスラム文化における自由の根源は、唯一神信仰の世界観にある。唯一神信仰の原則は、その繊細で正確な深い意味により、人間が自由であることを保障している。すなわち、神の唯一性を信じ、唯一の神を受け入れている人なら誰でも、人間を自由に解放すべきである。全ての神の預言者が第一に唱えていた事柄は、「神に服従せよ。神以外の誰か、人間を捕らえて隷属させようとする人々を回避しなければならない」というものであった。従って、イスラムの自由は唯一神信仰に基づいている。唯一神信仰の精神とは、神以外のものへの崇拝は否定されるべきだ、というものである。イスラムにおける自由の根源とは、神以外の誰にも服従しない人間の本質的な価値や人格である。実際、人間の自由の根源は、唯一神信仰、神の教え、神を知ることにある。自由な人間は、イスラム文化において、もはや神以外のものに服従することはできず、その権利を持ち得ないのだ。

 

***【唯一神信仰、人間の権利の平等】

 

神の命は、神が僕たちに与えた通達である。至高なる神は人間の生活全般に関して指示を与えている。すなわち、神は、人間が歩むべき流れを明確にしている。その流れとはどんなものであろうか? その流れとは、預言者たちが終始一貫して人間を誘っていたもの、イスラムの原則で手にされるもの、すなわち唯一神信仰、すなわち人間の尊重、すなわち、法や本質、戒律やその他の点からの人間の平等である。歴史を通して、その計画こそが、完成へと導くものであり、一つの流れ、一つの指示、一つの契約を神が僕たちに与えているのだ。

 

悪魔の役割とは何であろうか?悪魔はこの流れを変更する。神は唯一神信仰を呼びかけていた。すなわち、僕たちは互いを崇拝するのではなく、神を崇拝すべしという呼びかけに対し、悪魔の出現がその流れを変える。例えば、人々が僕たちを崇拝し、僕たちが互いを崇拝し合うようにする。神は人間への尊重、人間の価値を人々に呼びかけ、誘っていたし、神の計画はそれに基づくものであった。しかし別の人々、偶像たちは、人間への侮辱、人間への侮蔑、人間への蔑視に基づいた計画を立てる。今日、西側の物質主義文化において、人々は生活の中で神の不在を感じている。なぜなら人々が、本来の性質、神の約束が求めていたものから乖離し、変化しているからだ。偶像や神以外の計画は、人間たちに対し、人間が神を忘れるように働きかける。神の名や神の名の下にある真実を忘れるように、というのではない。神の名も聞こえてくる。時には表面的に神を信じてもいるが、神の真理を置き去りにしている。すなわち、社会における神の位置づけがどこにあるのかを知らないのだ。

 

【救済、解放の条件】

 

救済とは、イスラムの預言者がこう語っている事柄である。「唯一の神以外に神は存在しない」。この言葉を唱え、救済を得よ。誤った考え方からの解放、悪しき道徳からの解放、人間の手や頭、首や心に吊るされている威厳や執着、固執からの解放、これら全ての後に、人間を抑圧する圧制者の権力からの解放がある。すなわち、もしある国民が、思想や考え方、心や信条が完璧になったとしても、圧制者の力、植民地主義者の力、略奪者の力、あるいは何某の機関の独裁者の力に支配されていたなら、それは完全な救済とは言えない。完全な救済とは、精神、思考、道徳、社会、政治、精神性における解放である。こうした救済、解放こそ、宗教の目的、そして唯一神信仰の目的なのである。

 

【唯一神崇拝者の天国】

 

神の善良な僕たちは、睡眠、食事、会話、商売、スポーツ、学業、政治・社会活動、その他、彼らの世界における様々な活動の全てが、この目標、すなわち神へと向かうものである。この目標に向かう動きにより、人間の周囲に楽園が生まれる。この楽園は、創造世界の自然の法則に従い、統一された一色の人間の意志や要求、感情によって形成されている。この精神性に基づく唯一神信仰のイスラム的な生活の中には、矛盾や対立、衝突や敵対は存在しない。唯一神信仰の考え方は、人間自身の中にも楽園を創り出すのだ。

 

【政治体制における唯一神信仰】

 

唯一神信仰とは、すなわち人間が神以外のものを崇拝してはならないということである。神以外のものは、どんなものであろうと、偶像であり、神とは対極にあるものである。そのため、国家の政治体制において、人間がある命令や指示に従うとき、神に従っていればそれは正しく、神以外のものに従っていれば、それは誤ったものとなる。イスラム体制の基盤がそれである。

 

多神教信仰に穢れた考え方、あるいはより率直に言えば、偶像や悪魔に従う考え方は、個人的な行動、組織的な行動、集団的な行動、社会制度の質に影響を及ぼす。不信心とは言い換えれば悪魔である。悪魔とは、すなわち悪事や堕落、逸脱を生み出すものである。不信心とはまた、すなわち信仰に背くこと、すなわちその悪や堕落、逸脱である。不信心の力とは、すなわち偶像を信じる考え方、悪魔を信じる考え方である。

 

【視野の広さ】

 

唯一神を信じる人間は、広い視野を持つようになる。唯一神を信じる人間は、視野の狭さ、浅はかさ、先見の明のなさを免れる。このような人間は、「私はこの分野で敗北を喫した」、あるいは、「我々のグループはこの舞台で後退し、事は我々を損なう形で終わった」などとは言わない。その人は唯一神信仰の考え方が、人類全体の歴史の分だけ存在することを知っている。唯一神を信じる人間は、その視野が、物質的な問題や志の低い欲望に限定されてはおらず、そこに留まることはない。このような人間は、自らの前に、物質的なニーズと共に、幾多のニーズ、数多の人間にとって最も大きく愛すべきニーズが存在することを把握する。全ての思考は卑しいニーズに限定されない。唯一神を信じない人間は、たとえ献身的であっても、人間の尊い思想に魅了されていても、すべてものが死によって消滅する。しかし唯一神を信じる人間は、自らの将来が無限に広がっているのを目にする。彼らは現世を終わりだとは考えていない。現世の最後は、来世に続くと考えているためである。来世を現世から続くものと見なし、死を人生の障壁だとは見なしていない。この道の最後を想定せず、より広い世界へと続く通過点、扉だと考えている。これらは唯一神信仰の特徴である。唯一神を信じる人間は、死を、その人にとってのより広大な人生、より興味深く心地よい環境の起点と見なしている。物質主義的な人間は、もしどんなに自己犠牲的であったとしても、その人が消滅だと解釈する場所に自らを置く用意をするものだが、唯一神を信じる人間は、もし非常に自己犠牲的であったり、またたとえそれほど自己犠牲的ではなかったり、自己犠牲的であろうとしなかったとしても、物質主義者なら消滅と見なす地点に落ちることは簡単である。その人にとってはそこが消滅点であるとの解釈はあり得ないため、そこを、人間の人生の広大な領域の別の環境、別の場所であると認識し、そのように考えるのだ。

 

【唯一神を信じる人間は恐怖を抱かない】

 

唯一神信仰が人間の心理に及ぼす最大の影響は、神の道において、義務を果たす道において、自らの存在の目標と判断する道において、この道に横たわる敵や障害を恐れないということである。コーランでは、数回、敬虔な人間に向かって、「自らの心にある他人に対する恐怖の根を絶つがよい。そして私(神)を畏怖しなさい。神を畏れる者は、他の何ものも恐れることはない」と語りかけられている。唯一神を信じ、主の力を信じた者は、その人の心の恐怖が取り除かれる。恐怖心こそ、現世を、来世を、それを持つ者から奪ってしまうのだ。貧困を恐れる心は、人間が施しをするのを妨げる。不快な思いをするのを恐れる心は、人間に犯罪や悲劇を起こさせ、卑しい行動を取らせる。このような何の価値も意味もない人生を失うのを恐れる心は、人間が人生を終わらせる原因となる。社会的な生活を苦いものにするか、あるいは消滅させるのだ。

 

【偶像に対する唯一神信仰の対処】

 

イスラムの軍隊の使者が、強力なサーサーン朝の宮殿に入った時のことである。このイスラム教徒の使者は、かくも強大な政治権力を持った宮殿に入った。彼は恐れたか? 心の中で葛藤しただろうか? 否、決してそんなことはない。強大な力の前に、取るに足らない人間が立つとき、気持ちはひたすら、自らをわずかでもその強大な力に近づけようとする、わずかでも自らをそれに近づけようとするのである。おべっかによって、お世辞によって、あるいは恐怖を表明すること、服従を表すことによってであったとしても。(かのイスラム教徒の使者は)そのようになっただろうか? 否、決してそんなことはない。彼が前に進み、王座の前に達したとき、ヤズドゲルド(サーサーン朝の王)の王座の上に足を置いたそうである。なぜなら、ヤズドゲルドが彼の手から書状を受け取るために近づいてこなかったからだ。彼は預言者ムハンマドのメッセージを携えていた。他の人々がそれを代わりに受け取ろうと近づいてきたとき、彼は「あなた方には渡さない。王自身に渡さなければならぬ」と言った。王はその場から立ち上がり、このアラブ人の使者から書状を受け取ろうともしなかった。そのため使者は、自らが前に歩み出るしかなかったのだ。そして王座に上がり、書状を王に渡した。イランの王は言った。「ここに来た理由は何であるか?」 すると使者は言った。「私がここに参じたのは、人々を、神の僕たちを、この世の狭い限られた囲いから出し、広い世界、来世へと連れて行くためである。つまり、人々を、ヤズドゲルド、そなたに服従することから救うために! 人々を、そなたの役人、そなたにかしずく者たちから救うために」

 

【唯一神を信じる人間の人生における責任】

 

あらゆる思想、宗教的な教義や考え方のうちのあらゆる原則を信じるためには、第一に、知識を持っていなければならない。理解し、認識した上でなければならず、盲目的に信じるべきではない。第二に、信仰は責任を伴っていなければならない。人間が信仰を見出すべきものは、必ず、人間の生活、その人の行動において、― 個人的な行動であろうと、社会的な行動であろうと、その人自身に関することであろうと、その人の社会に関することであろうと、人類全体に関することであろうと、未来に関することであろうと、― 必ずその人に責任を課すものである。唯一神信仰は、見識や認識を伴ったものであり、それに続いて、様々な責任や義務が課されるものである。

 

責任とは、唯一神信仰が、それを信じる人間に課すものであり、イスラムの宗教的な信条の中で、最大のもの、最も重大なもの、最も重要なものと見なされる。

 

第一の責任は、唯一、神のみに服従することである。唯一神信仰がそれを信じる人間に課す第二の責任は、唯一神信仰に基づく社会、階級差別のない社会である。各グループの人間が、権利や利点によって互いに分離されることのない社会、全ての人間が、一つの法的な基準の下で生活する社会、誰もが一つの方向に向かって、同等の可能性、同等の権利によって生活し、活動する社会である。

 

【唯一神信仰を守るための用意】

 

歴史を通して、正義と悪の2つの流れが、常に戦いを続けてきた。今日に限られたものではない。善と悪の2つの争い、戦いは、この2つの流れが存在する結果である。至高なる神はこう語っている。

 

「世界に存在するある人々は、神を支えにして得られた力によって、世界に存在する力を利用して、地上で悪事を行う別の人々を退けるべきである」

 

このように、善と悪の間の争い、戦いは、歴史において常に存在してきた出来事であった。神の思想や宗教とそれ以外の思想や宗教の間に存在する違いは、戦争が、神の宗教にとって、神のために行うものであり、盲目的な行為でも、目的のない力のみを追求する行動でもなく、神の道における戦いなのだということであり、そのために神の預言者(ムハンマド)は、メディナを統治した10年間に、おそらく70もの不信心や敵対者との戦争を行ったのだ。この10年の間に、預言者は一瞬たりとも手を休めたことはなく、そのために、イスラムの文明、イスラムの文化、イスラムの道徳が、一つの流れとして歴史に刻まれることになった。世界の圧制者が、真理の流れが世界に留まるのを許さず、それを根絶させようとするのは当然かつ、自明の理である。もし唯一神信仰や神の宗教という良い香りを放つ花が、無防備のままで放置されれば、花を摘む人々の手が伸ばされることになるだろう。人間が、神の道― 実際、精神性や神の価値観を守る道において戦うことが必須だと確信したとき、この戦いの準備を整えることが宗教義務となる。イスラム教徒は神の道における戦いの用意をすべしということは、コーランにも記されている。

 

「敵に対し、全力を尽くして準備を整えるがよい。可能な限り必要な準備を」

 

用意すべきである。それによって、神の敵、イスラム社会の敵を恐れさせ、威嚇してやるのだ。

 

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