最高指導者の考える唯一神信仰

第2章 唯一神崇拝の否定者

  • ニュースコード : 794125
  • 出典 : Khamenei.ir
Brief

神の僕であることとは、すなわち自由であること、高潔であること、成長に向かうこと、成長に向け能う限りの手段を活用することである。

第2章 唯一神崇拝の否定者

 

【人類の堕落の扉】

 

一人の人間、一つの社会が陥る最大の罪とは、多神教信仰である。至高なる神は全ての罪を赦されるが、多神教信仰だけは赦されない。多神教信仰は、これほど大きく忌避されるものでありながら、世界の人々の間で、数多く見られる罪の一つである。それは、この罪が、他の多くの罪とは異なり、常に衆人環視のものではないためである。そのため、伝承では、多神教信仰が、明らかなそれと明らかではないそれとに区別されている。多神教信仰は、時に無知な社会に存在し、時にイスラム社会にも存在する。

 

【無知な社会における多神教信仰】

 

無知な社会では、全てのものが多神教信仰であり、人々の全ての行動が多神教に汚されている。なぜなら、イスラム以外の無知な社会のトップには、社会や社会の進む方向を、神以外のものへと導く人間が立っているからである。従って、彼ら自身、そして彼らに追従して動く全ての人々は、実際、業火と滅亡、消滅へと向かっていることになる。

 

多神教信仰に穢れた社会において、人間と、世界の支配者、強大な力の持ち主、存在の源である神との関係が提起されるとき、当然、この社会では人々が分裂する。一部はある神へと、一部は別の神へと、そして別の一部は、また別の神へ。多神教信仰に基づいている社会は、人々の間、その部族の間に、決して崩すことのできない壁、つなぐことのできない溝が存在するのだ。

 

【イスラム社会における多神教信仰】

 

社会のトップに神の後継者、神の代理人たちが立つイスラム社会にも、多神教信仰が存在する。イスラム社会、イスラムであろうとする社会の多神教信仰の第一の例は、この社会の責任者が、消極性から、あるいは努力の不足から、あるいは将来、イスラム、イスラム教徒に対する不信から、神以外の戒律を制定し、それを実施しようとする、というものである。それがれっきとした多神教信仰である。イスラムという名の下、イスラム教徒の集団が暮らす社会において、この社会のトップに立つ人々が、神の戒律を利益と取引するとき、これは社会における多神教信仰である。このような社会は、イスラム教徒で構成される社会であろうとも、実際は、この社会に慢性的な多神教信仰が広まっているのだ。

 

【多神教信仰の意味を知る必要性】

 

イマーム・サッジャード(シーア派4代目イマーム)は、このように語っている。

 

「ウマイヤ朝は、人々が信仰を習得する道を開きはしたが、多神教信仰を習得する道は開かなかった。それは、もし人々が多神教信仰に導かれても、人々がそれに気づくことがないようにするためである」

 

ウマイヤ朝は、宗教学者や宗教の指導者、イマームたちが、礼拝、ハッジ(メッカ巡礼)、ザカート(喜捨)、断食、礼拝行為に関して語り、それに関する神の戒律を説くのを許していた。彼らは、唯一神信仰について、預言者の使命について人々に説明する道を開いていたが、社会における多神教信仰の誘惑やそれに相当する事柄、多神教信仰が何たるかを人々に教える道を開かなかった。それは、もしこの多神教信仰に関する知識が人々に教えられていたら、人々は即座に、彼らが多神教徒であることを理解し、ウマイヤ朝が人々を多神教信仰に導こうとしていることを知られてしまっていたからだ。人々はすぐに、ウマイヤ朝の為政者たちが神に対して抵抗し、彼らに従う者がいれば、それは実際、多神教を信仰することになる、ということに気づいていただろう。そのために、人々が多神教信仰に関する知識を得ることを許さなかったのだ。

 

【人間が多神教に走る原因】

 

アッラーメ・マジュレスィー師は、このように語っている。

 

「コーランの中の多神教信仰に関する節は、表面的には、目に見える形の偶像に関するものである。あの石や木でできた偶像である。しかしその内面、その解釈は、圧政的な支配者を指している。不当に自らをイスラム社会の支配者と呼び、イスラム社会を統治していた者たちは、イマーム(シーア派の12イマーム、イスラム教の指導者)たちと権利を分かち合い、イスラム社会の統治、イスラム教徒社会に対する支配を主張していた。この、イマームたちと権利を分かつこと自体、神に対して別の神を並べる行為である。なぜなら、イマームたちは神の代理人であり、神の言葉で語り、神の側から発言しているからである。しかし圧政的な支配者は、自らを彼らの代わりに据え、彼らとイマームの主張を分かち合った。そのため、彼らは偶像であり、彼らに従う者は皆、実際、多神教徒になったことになる」

 

【神の子の主張とその否定】

 

コーランが、信条として人々に示すものは、神の目的の成就に関わるものである。そして堕落した考え方として否定するものは、それを信じることによって、社会の堕落の実現へとつながる事柄である。堕落した考え方の否定は、人類社会における堕落の一端を否定することを意味する。コーラン第19章マルヤム章、第88節には次のようにある。

 

「彼らは言った。『寛容な神は子孫を得た』と」

 

キリスト教徒、ユダヤ教徒、クライシュ族(イスラムの預言者の出身)の多神教徒、アラビア半島の多神教徒、その他の場所の多神教徒たちは、「慈悲深い神は子孫を選択した」と語っていた。中には、「神には娘がいる」と言う者もいた。また、「息子がいる」と言う者、「娘と息子がいる」と言う者、「一人いる」と言う者、「無数にいる、妻子がある」と言う者もいた。こうした主張が意味するのは、世界の創造物の中に、神との関係が、主従関係ではなく、親子関係にある誰かがいるということである。神の立派な御子であって、下僕ではない。ユダヤ教徒は、「預言者オザイルは神の子である」と語っていた。彼らは、「もし世界の全ての存在物が神の僕であっても、オザイルはその例外である。彼は神の僕ではなく、神の御子であり、神に寵愛される存在である」と言いたかったのだ。キリスト教徒も、イエスに関してこのようなことを語っていた。偶像崇拝者たちも、ラート(古代アラブの偶像)、マナート(古代アラブの偶像)、オッザ(無明時代のアラブの偶像)について、「これらは神の娘である」と言っていた。ギリシャやローマの多神教徒たちも、神に関して、多数の御子がいると考えていた。彼らの意見は皆、このようなものであった。すなわち、実際、神と、神に対して頭を垂れる、全ての僕や存在物という、考慮された2つの立場、この2つの立場を彼らは3つにし、「神と僕と神の子孫たち」と言っていたのだ。神と人類の中間の存在を信じる考え方は、社会に堕落を生じさせる。これは実際、僕たちが神の僕である以外に、他者の僕となるための口実である。

 

【物質主義者が唯一神信仰を否定する理由】

 

唯一神を信仰する人間は、人間が目にするものを超えたところに、より偉大で優れた真理が存在し、もしこの真理が存在していなかったら、これらの現象も生まれていなかったと語っている。物質主義者の主張はこうである。「否、私たちは目にする事柄以外、何かを信じることはできない。実験室や研究室で、どんなに探しても、唯一神崇拝者たちの言う存在の痕跡は見当たらない」。現代の物質主義者たちは、「この世界を超えた所に、別の真理は存在しない」と考えている。彼らは実際、宗教的な思想に対して、思想的、心理的な喪失感を抱えているため、そのようなことを主張する。物質主義者は、差別の撤廃、公正の確立、人間の管理と世界の今日の基盤は、物質主義的、唯物主義的な思想なくしてはあり得ないと考えているために、宗教的な思想の見解に背を向けているのだ。

 

今の時代の一部の主義に傾倒している人々のような状況に関して、きちんと調査研究が行われれば、この事実(神の存在)を否定するのが、神に敵意を持っているから、あるいは神の存在に対して思想的に納得できる論証がないから、神を否定する、あるいは受け入れていないのだ、ということが理解される。多くの場合、その思想に根拠や論証は存在しない。

 

神の否定には、論証は全く存在しない。今も、そして過去にも。誰も、「このような理由で神は存在しない」と言える者はいない。世界の全ての物質主義者の間で、― それが始まったときから現在まで― 「このような理由で、神は存在しない、ということを私が証明して見せよう」と言える人間は一人もいない。これに関して言うべきことを有している人は、「(神が)存在するとは私にとって確信できない。理解できない、その存在の根拠を認めていない」と言う。コーランもその事実を指摘している。

 

「彼らはただ、想像と推測を追い求めているだけである。そうでなければ、根拠によって神を否定することなどできないだろう」

 

【物質主義に傾倒する原因】

 

物質主義思想と呼ばれる事柄に傾倒する理由とは、物質主義者が、今日、この思想なら、よりよく世界を管理することができると考えているためである。このような輩は、物質主義思想が、よりよく圧制を排除し、よりよく差別や不平等をなくし、よりよく独裁や専制を根絶することができると主張している。物質主義者は、「宗教にはこれらのことは不可能である」と言う。彼らはなぜ、「宗教にはそれは不可能だ」などと言うのだろう? それは、市井の人々の間に、伝統や模倣といった形で見られる事柄以外、宗教、宗教に見られる内容について何も知らないからだ。彼らは宗教に関して何も知ってはいない。もしそのような人に、「宗教とは何か」と尋ねてみれば、一連の宗教の名を挙げ、「これらが宗教である」と言う。「これらの宗教」は麻薬であり、圧制や圧制者に等しくその仲間であり、これらには人々が窮している問題を解決することなどできない。明らかに、このような理論に直面すれば、最も正しい最高の答えは、こうである。「その通り。圧制者に協力し、独裁者に協力し、抑圧された人々に対して一瞬たりとも譲歩せず、人々が窮している問題をわずかたりとも解決しない、少しも、人々の現在と未来のためにはならないような宗教を見つけたなら、諸君は我々の判断者である。もしこのような宗教を見つけたら、どこであろうと見つけたら、それを否定すべきである。一瞬たりとも、このような宗教を受け入れてはならない。宗教がもし神からのものであれば、このようであるはずがないからである」

 

【神は一部の人により多くの愛情を注ぐだろうか?】

 

ユダヤ教徒(そしてキリスト教徒)は言った。「我々は神の末裔であり、神の友である」と。至高なる神はそれに対し、こう答えた。「彼らの犯罪の一つをご覧にいれよう」と。答えを返し、またこう叱責する。「もしあなた方がそれほど神と仲睦まじく、緊密な関係にあるのなら、なにゆえその預言者たちを殺害したのか?」と。なぜ神が選んだ僕を殺害したのか? ユダヤ教徒は、「私たちは神の子孫であり、神の血縁にあたる。特権を有している」と言っていた。イスラムは、「このような言葉は誤りだ」と言っている。神はまた別の場所でこう仰る。「あなた方は神と非常に近い関係であると言うが、もし本当なら死を求めるがよい。それでこの空虚な人生から解放されるように。愛する神に一連の親族を据えるがよい」と。それからこう仰る。「彼らが死を求めるなどとはあり得ないことである」 ユダヤ教徒と死の懇願などと?!

 

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